goo blog サービス終了のお知らせ 

歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

足立遠元館跡―歴史雑感〔36〕―

2017年08月29日 18時31分55秒 | 日本史(古代・中世)

足立遠元は、源賴朝の代に宿老として遇され、武蔵国の有力御家人で、名乗りの地である足立郡を領有しました。遠元の居館として伝承される地は複数あります。この中で、中心の地であると考えられているのが、埼玉県桶川市末広2丁目8番地の桶川市総合福祉センターのあるところです。『武蔵風土記稿』(19世紀前半に幕府により編纂された地誌)巻之百四十七足立郡之十三桶川宿に本居館跡に関して、林となってこの中に無字の石祠があるだけと、記述されています。すでにこの時期には痕跡を残していなかったようです。

さて、写真(2017年8月28日撮影)に見るように、現在では本居館跡を伝えるのはセンター横にある「伝足立右馬允遠元舘跡碑」(1983年建立)のみです。当地への公共交通は、朝日バスのJR桶川駅東口発の加納公民館経由JR桶川駅東口行(加納循環)で、5つ目の総合福祉センター下車徒歩約3分です。

なお、足立遠元に関しては「武蔵武士足立遠元(その1)―歴史雑感〔6〕―」(2005年11月6日付)以下を参照してください。

(2017.08.29)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉永福寺遺址―歴史雑感〔35〕―

2017年08月25日 15時49分38秒 | 日本史(古代・中世)

永福寺遺址(神奈川県鎌倉市二階堂178)は、1983~1997年にかけての発掘調査により全貌が判明し、その後復元整備が行なわれ、本年6月公開となりました。開門時間は9~17時(11月~3月までは16時30分)です。JR鎌倉駅から鎌倉宮行バスで終点の鎌倉宮下車、徒歩約5分(瑞泉寺へ)です。

永福寺は、文治5年(1189)の奥州合戦で奥州平泉藤原氏を滅亡させた源賴朝が平泉の二階大堂等を見て驚愕して、本合戦での死者鎮魂のため、創建した寺院です。同年12月に建立を決定し、建久3年(1192)11月25日に二階堂の落慶供養、翌4年(1193)11月27日に阿弥陀堂落慶供養、翌々5年(1194)12月26日に薬師堂落慶供養、と三つの御堂が完成しました。

発掘調査で二階堂・阿弥陀堂・薬師堂の3御堂の他、複廊・翼廊・釣殿・橋・池等の配置・規模が明らかになりました。2007年から鎌倉市は永福寺遺址の復元整備事業を行ないました。建物遺址の上に60cmの盛土をして保護するとともに、御堂の基壇を同じ木で復元し、同時に建物の礎石を配置しました。木・石は発掘で出土したものと同一素材を使用しています。池は30cm嵩上げして復元しています。ただ、本来の池は東と南により広がっていましたが、敷地等の関係で現在規模となっています。

写真1は、発掘調査による永福寺復元図です。南から南翼廊・南中門・釣殿、阿弥陀堂、南複廊、二階堂、北複廊、薬師堂、北翼廊・北中門・釣殿の建物群、この北に谷からの水取り入れの遣水、建物群に東面して広がる池、池の南端中に岩を組み合わせた中島、池の中央に二階堂に対面して橋となっています。

写真2は、阿弥陀堂を南から見たものです。御覧のように基壇が復元されています。奥には二階堂の基壇が見えます

写真3は、西南側から見た二階堂の基壇です。手前が南複廊です。

写真4は、西正面の基壇上から見た二階堂です。

写真5は、南東角から見た薬師堂の基壇です。

写真6は、北の釣殿上から見た池と二階堂等の基壇です。二階堂と対面して池には橋の基盤が見えます。

写真7は、奥から見た全景です。

最後の写真8は、南側の池越しに見た全景です。

以上、2017年8月23日(水)午前のものです。なお、鎌倉市の本遺址に関しての案内は、

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/yohukuji_cg.html

で、リンク先には永福寺跡復元CG等があります。また、フォトアルバム「鎌倉永福寺遺址」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsssy4LVEWqlu-28JQです。

(2017.08.25)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする