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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

2014年夏の春熙路―成都雑感〔155〕―

2014年06月20日 21時51分22秒 | 観光(成都)

中山広場を中心に東西南北に広がる春熙路は成都の中心商業街であり、2002年2月、改修が終わり、面目一新して歩行者専用道として今日に至り、日々賑わいを見せています。そこで、1年ぶりに成都を訪問した機会に、2014年6月18日(水)、夏の春熙路の様子をお見せします。

写真1は、春熙路南段と東大街の交差点上に架かる歩道橋から、南段を俯瞰したものです。中央の赤いパラソルの下にベンチがあり、休息の場となっています。右側のビルが大型商業施設の群光広場です。

写真2は、群光広場の北入口です。地下2階の食品街にこの6月にラーメンの「一風堂」が開店しました(豚骨ラーメン39元)。

写真3は、南段のベンチで休む成都小姐です。後方にも小姐が見えます。

写真4は、春熙路中心の中山広場です。左側の像が辛亥革命の指導者で国父の孫中山(孫文)です。右側に見えるのは警備の武装警察隊隊員2名です。写真ではお分かりにならないかも知れませんが、サブマシンガンで武装しています。

写真5は、北段での清掃車です。電動モーターの駆動です。

写真6は、北段に設置された「結婚写真」所です、中国では結婚に当たって、結婚アルバムを作成するのが普通で、成都市では費用をかけても九寨溝で写真撮影をするのが人気です。もちろん女性が主役です。

写真7は、北段端に建てられている春熙路碑です。廻りは写真のようにいつも花で飾られています。右側の壁にあるのは中華民国時代の春熙路の様の彫刻です。

写真8は、北段を歩く成都小姐です。

 

写真9は、東段に位置するイトーヨーカドー春熙店です。中国進出の1号店で、1997年11月に開店しました。その奥が2007年5月に開店した成都伊勢丹です。伊勢丹の7階レストラン街には「とんかつ和幸」と「カプリチョーザ」が入っています。また、両店地下の食品街は四川産調味料などのお土産品購入の場としていいでしょう。

最後の写真10は、東段から紅星路三段を挿んで、右側に見えるビルが国際金融中心(IFS)で、壁にパンダが掛かっており目立ちます。オフィス・商業施設の複合ビルです。「ユニクロ」が入っており、また地下1階に「一風堂」が開店しました。なお、「ユニクロ」は春熙路付近に3店舗が展開しています。左側が成都伊勢丹の入っている利都B座で上階は5星のホテル(成都海悦酒店)となっています。

 

なお、フォトアルバム「成都・2014年夏の春熙路」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkg5UCqf9HdhplW1Aです。

(2014.06.20)

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2014年西南交通大学日本語学科卒業論文答弁会―成都雑感〔154〕―

2014年06月15日 17時17分38秒 | 教育

2014年6月15日(日)午前に開かれた西南交通大学日本語学科卒業論文答弁会を傍聴しました。写真はその風景で、LL教室で行われました。

全体は4組に分かれ、この1組を傍聴しました。その9名の卒業論文題目をしまします。

〔言語類〕3編

日本語における外来語についての研究

日本のテレビ広告のキャッチフレーズにおけるオノマトペの使用実態に関する研究

日本語の受身文の翻訳について

〔日本文学類〕5編

『詩経』と『万葉集』詩作の対比研究

『河童』に見る芥川龍之介の晩期思想

堀辰雄の精神生活の変遷―『聖家族』『風立ちぬ』『菜穂子』をめぐって―

『ヒロシマ・ノート』から見る大江健三郎の平和意識

森村誠一の代表作にみた日本社会の暗い一面


〔日本文化類〕1編

中国「未成年者」犯罪と日本「少年」犯罪の実態探究

(2014.06.15)

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石橋山合戦(その1)―歴史雑感〔15〕―

2014年06月10日 00時56分53秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、源頼朝軍の構成

(その2)二、大庭景親軍の構成

(その3)三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

(その4)四、合戦の経過〈椙山合戦〉

(その5)五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

 

 

一、源頼朝軍の構成

1180(治承4)年8月23日夕方から翌日にかけて、相模国足下郡石橋山(神奈川県小田原市石橋)で、六波羅平家政権への反乱に蹶起した源頼朝軍と平家方の大庭景親軍の間で戦われた、石橋山合戦は兵力差もあり、頼朝軍の惨敗で終わり、頼朝が命からがら箱根山に遁れた合戦として周知なものです。本合戦は治承・寿永の内乱において頼朝自身が弓を取り戦った唯一の合戦でもあります。

『吾妻鏡』治承四年八月二十日条に、伊豆国から相模国足下郡土肥郷(神奈川県湯河原町)に赴く、源頼朝軍従軍者の交名が記載されています。以下の通りです。

1.北條四郎(北条時政・伊豆国北條氏族)

2.子息三郎(北条宗時・伊豆国北條氏族)

3.同四郎(北条義時・伊豆国北條氏族)

4.平六時定(北條時定・伊豆国北條氏族)

5.藤九郎盛長(安達盛長・武蔵国足立氏族)

6.工藤介茂光(工藤茂光・伊豆国工藤氏族工藤流)

7.子息五郎親光(工藤親光・伊豆国工藤氏族工藤流)

8.宇佐美三郎助茂(宇佐美祐茂・伊豆国工藤氏族宇佐美流)

9.土肥次郎実平(土肥実平・相模国中村氏族土肥流)

10.同弥太郎遠平(土肥遠平・相模国中村氏族土肥流)

11.土屋三郎宗遠(土屋宗遠・相模国中村氏族土屋流)

12.同次郎義清(土屋義清・相模国三浦氏族岡崎流)

13.同弥次郎忠光(土屋忠光・相模国中村氏族土屋流)

14.岡崎四郎義実(岡崎義実・相模国三浦氏族岡崎流)

15.同余一義忠(佐奈田義忠・相模国三浦氏族岡崎流)

16.佐々木太郎定綱(佐々木定綱・近江国浪人佐々木氏族)

17.同次郎経(佐々木経・近江国浪人佐々木氏族)

18.同三郎盛綱(佐々木盛綱・近江国浪人佐々木氏族)

19.同四郎高綱(佐々木高綱・近江国浪人佐々木氏族)

20.天野藤内遠景(天野遠景・伊豆国工藤氏族天野流)

21.同六郎政景(天野政景・伊豆国工藤氏族天野流)

22.宇佐美平太政光(宇佐美政光・伊豆国)

23.同平次実政(宇佐美実政・伊豆国)

24.大庭平太景義(大庭景義・相模国大庭氏族大庭流)

25.豊田五郎景俊(豊田景俊・相模国大庭氏族大庭流)

26.新田四郎忠常(新田忠常・伊豆国)

27.加藤五景員(加藤景員・伊勢国浪人)

28.同藤太光員(加藤光員・伊勢国浪人)

29.同藤次景廉(加藤景廉・伊勢国浪人)

30.堀藤次親家(堀親家・伊豆国)

31.同平四郎助政(堀助政・伊豆国)

32.天野平内政家(天野政家・伊豆国)

33.中村太郎景家(中村景家・相模国中村氏族中村流)

34.同次郎盛平(中村盛平・相模国中村氏族中村流)

35.鮫島四郎宗家(鮫島宗家・駿河国)

36.七郎武者宣親(宣親)

37.大見平次家秀(大見家秀・伊豆国)

38.近藤七国平(近藤国平)

39.平佐古太郎為重(平佐古為重)

40.那古谷橘次頼時(那古谷頼時・伊豆国)

41.沢六郎宗家(沢宗家・伊豆国)

42.義勝房成尋(成尋・僧侶)

43.中四郎惟重(中原惟重・文士)

44.中八惟平(中原惟平・文士)

45.新藤次俊長(藤原俊長・文士)

46.小中太光家(中原光家・文士)

交名従軍者46名中の武士41名を出身国別に見ると、伊豆国18名、相模国11名、駿河国1名、武蔵国1名、近江国(浪人)4名、伊勢国(浪人)3名、不明3名です。伊豆国山木攻めが蹶起の発端であり、最初の基盤が伊豆国である以上、伊豆国出身武士の従軍者数が最大多数なのは当然といえます。

北条氏は庶流の時政親子3名に加えて、嫡流の時定(この時期の北条氏嫡庶流に関しては、杉橋隆夫氏「北條時政の出身」『立命館文学』第500号1987年3月、参照)が従軍して4名と伊豆国武士では最大数です。しかし、時定の父である北條介時兼は『吾妻鏡』の鎌倉幕府成立過程で一切所見していません。このことは、少なくとも内乱当初において、北条氏嫡流は全力を挙げて参加していないことを窺わせます。北条氏の基本的戦力は庶流である時政父子であるということです。次いで、工藤茂光親子2名に甥の宇佐美助茂を加えて工藤氏が3名です。工藤介茂光とあるように、工藤氏は伊豆国有力在庁官人で、伊豆国最有力武士の伊東祐親(茂光甥)が平家方に対して、それに本来は並ぶ有力武士です。すなわち、頼朝軍の伊豆国武士の主力は北条氏ではなく工藤氏といえます。この他、天野氏(工藤氏族と平姓の両氏)、平姓宇佐美氏、大見氏、堀氏、新田氏、奈古谷氏、沢氏と、宇佐美氏を除き田方郡を本拠とする武士が参加しています(堀氏の本拠は不明)。以上、北条氏と工藤氏を加えると、頼朝軍従軍の伊豆国武士は狩野川流域を本拠とする中伊豆の者たちです。これは平家方の伊東祐親の本貫が加茂郡伊東庄(静岡県伊東市伊東)と東伊豆を基盤としているのと対称的です。以上が伊豆国武士です。

相模国武士では土肥実平・遠平親子と実平弟の土屋宗遠・忠光親子との、土肥氏流が4名となります。これに、中村宗平(実平父)の娘婿である岡崎義実・義忠親子と土屋義清(義実子・宗遠養子)を加えると、実平縁戚関係が7名と、頼朝軍従軍の最大多数となります。さらに、系譜類に所載はありませんが、中村宗平の孫かと思われる景平・盛平を加えると、実平縁戚者は9名となります。こうしてみると、石橋山合戦の地である土肥郷(神奈川県湯河原町)・早川庄(同県小田原市早川)を本貫とする土肥氏が頼朝軍の主力であることは明白です。他に大庭(懐島)景義・景俊兄弟の大庭氏です。以上の相模武士の本貫地を見ると、大庭景義(懐島郷=同県茅ヶ崎市矢畑付近)を除き、相模川以西の武士たちです。すなわち、相模国従軍武士は西相模を本貫とするものが基本です。

山木攻めに参画した武士を見ると、伊豆国では北條時政・工藤茂光、相模国では土肥実平・岡崎義実と(『吾妻鏡』治承四年八月六日条)、石橋山合戦従軍武士の主力がすべており、本合戦の主力戦力が山木攻めを継続していることが分かります。すなわち、その主力は土肥氏縁戚であり、次いで工藤氏といえ、北条氏の戦力は付随的なものといえます。そして、文士といえる従軍者が4名もいることは、頼朝軍の相模国進出目的には伊豆国と同様に国衙を掌握して、地方行政権を行うことがあり、この要員としてであり、頼朝軍が単なる軍事行動を越えて、東国一体の簒奪を目的としていたことが理解できます。

(続く)

(2014.06.10)

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