(その1)一、源頼朝軍の構成
(その2)二、大庭景親軍の構成
(その3)三、合戦の経過〈石橋山合戦〉
(その4)四、合戦の経過〈椙山合戦〉
(その5)五、源頼朝軍の参軍者の合戦後
一、源頼朝軍の構成
1180(治承4)年8月23日夕方から翌日にかけて、相模国足下郡石橋山(神奈川県小田原市石橋)で、六波羅平家政権への反乱に蹶起した源頼朝軍と平家方の大庭景親軍の間で戦われた、石橋山合戦は兵力差もあり、頼朝軍の惨敗で終わり、頼朝が命からがら箱根山に遁れた合戦として周知なものです。本合戦は治承・寿永の内乱において頼朝自身が弓を取り戦った唯一の合戦でもあります。
『吾妻鏡』治承四年八月二十日条に、伊豆国から相模国足下郡土肥郷(神奈川県湯河原町)に赴く、源頼朝軍従軍者の交名が記載されています。以下の通りです。
1.北條四郎(北条時政・伊豆国北條氏族)
2.子息三郎(北条宗時・伊豆国北條氏族)
3.同四郎(北条義時・伊豆国北條氏族)
4.平六時定(北條時定・伊豆国北條氏族)
5.藤九郎盛長(安達盛長・武蔵国足立氏族)
6.工藤介茂光(工藤茂光・伊豆国工藤氏族工藤流)
7.子息五郎親光(工藤親光・伊豆国工藤氏族工藤流)
8.宇佐美三郎助茂(宇佐美祐茂・伊豆国工藤氏族宇佐美流)
9.土肥次郎実平(土肥実平・相模国中村氏族土肥流)
10.同弥太郎遠平(土肥遠平・相模国中村氏族土肥流)
11.土屋三郎宗遠(土屋宗遠・相模国中村氏族土屋流)
12.同次郎義清(土屋義清・相模国三浦氏族岡崎流)
13.同弥次郎忠光(土屋忠光・相模国中村氏族土屋流)
14.岡崎四郎義実(岡崎義実・相模国三浦氏族岡崎流)
15.同余一義忠(佐奈田義忠・相模国三浦氏族岡崎流)
16.佐々木太郎定綱(佐々木定綱・近江国浪人佐々木氏族)
17.同次郎経(佐々木経・近江国浪人佐々木氏族)
18.同三郎盛綱(佐々木盛綱・近江国浪人佐々木氏族)
19.同四郎高綱(佐々木高綱・近江国浪人佐々木氏族)
20.天野藤内遠景(天野遠景・伊豆国工藤氏族天野流)
21.同六郎政景(天野政景・伊豆国工藤氏族天野流)
22.宇佐美平太政光(宇佐美政光・伊豆国)
23.同平次実政(宇佐美実政・伊豆国)
24.大庭平太景義(大庭景義・相模国大庭氏族大庭流)
25.豊田五郎景俊(豊田景俊・相模国大庭氏族大庭流)
26.新田四郎忠常(新田忠常・伊豆国)
27.加藤五景員(加藤景員・伊勢国浪人)
28.同藤太光員(加藤光員・伊勢国浪人)
29.同藤次景廉(加藤景廉・伊勢国浪人)
30.堀藤次親家(堀親家・伊豆国)
31.同平四郎助政(堀助政・伊豆国)
32.天野平内政家(天野政家・伊豆国)
33.中村太郎景家(中村景家・相模国中村氏族中村流)
34.同次郎盛平(中村盛平・相模国中村氏族中村流)
35.鮫島四郎宗家(鮫島宗家・駿河国)
36.七郎武者宣親(宣親)
37.大見平次家秀(大見家秀・伊豆国)
38.近藤七国平(近藤国平)
39.平佐古太郎為重(平佐古為重)
40.那古谷橘次頼時(那古谷頼時・伊豆国)
41.沢六郎宗家(沢宗家・伊豆国)
42.義勝房成尋(成尋・僧侶)
43.中四郎惟重(中原惟重・文士)
44.中八惟平(中原惟平・文士)
45.新藤次俊長(藤原俊長・文士)
46.小中太光家(中原光家・文士)
交名従軍者46名中の武士41名を出身国別に見ると、伊豆国18名、相模国11名、駿河国1名、武蔵国1名、近江国(浪人)4名、伊勢国(浪人)3名、不明3名です。伊豆国山木攻めが蹶起の発端であり、最初の基盤が伊豆国である以上、伊豆国出身武士の従軍者数が最大多数なのは当然といえます。
北条氏は庶流の時政親子3名に加えて、嫡流の時定(この時期の北条氏嫡庶流に関しては、杉橋隆夫氏「北條時政の出身」『立命館文学』第500号1987年3月、参照)が従軍して4名と伊豆国武士では最大数です。しかし、時定の父である北條介時兼は『吾妻鏡』の鎌倉幕府成立過程で一切所見していません。このことは、少なくとも内乱当初において、北条氏嫡流は全力を挙げて参加していないことを窺わせます。北条氏の基本的戦力は庶流である時政父子であるということです。次いで、工藤茂光親子2名に甥の宇佐美助茂を加えて工藤氏が3名です。工藤介茂光とあるように、工藤氏は伊豆国有力在庁官人で、伊豆国最有力武士の伊東祐親(茂光甥)が平家方に対して、それに本来は並ぶ有力武士です。すなわち、頼朝軍の伊豆国武士の主力は北条氏ではなく工藤氏といえます。この他、天野氏(工藤氏族と平姓の両氏)、平姓宇佐美氏、大見氏、堀氏、新田氏、奈古谷氏、沢氏と、宇佐美氏を除き田方郡を本拠とする武士が参加しています(堀氏の本拠は不明)。以上、北条氏と工藤氏を加えると、頼朝軍従軍の伊豆国武士は狩野川流域を本拠とする中伊豆の者たちです。これは平家方の伊東祐親の本貫が加茂郡伊東庄(静岡県伊東市伊東)と東伊豆を基盤としているのと対称的です。以上が伊豆国武士です。
相模国武士では土肥実平・遠平親子と実平弟の土屋宗遠・忠光親子との、土肥氏流が4名となります。これに、中村宗平(実平父)の娘婿である岡崎義実・義忠親子と土屋義清(義実子・宗遠養子)を加えると、実平縁戚関係が7名と、頼朝軍従軍の最大多数となります。さらに、系譜類に所載はありませんが、中村宗平の孫かと思われる景平・盛平を加えると、実平縁戚者は9名となります。こうしてみると、石橋山合戦の地である土肥郷(神奈川県湯河原町)・早川庄(同県小田原市早川)を本貫とする土肥氏が頼朝軍の主力であることは明白です。他に大庭(懐島)景義・景俊兄弟の大庭氏です。以上の相模武士の本貫地を見ると、大庭景義(懐島郷=同県茅ヶ崎市矢畑付近)を除き、相模川以西の武士たちです。すなわち、相模国従軍武士は西相模を本貫とするものが基本です。
山木攻めに参画した武士を見ると、伊豆国では北條時政・工藤茂光、相模国では土肥実平・岡崎義実と(『吾妻鏡』治承四年八月六日条)、石橋山合戦従軍武士の主力がすべており、本合戦の主力戦力が山木攻めを継続していることが分かります。すなわち、その主力は土肥氏縁戚であり、次いで工藤氏といえ、北条氏の戦力は付随的なものといえます。そして、文士といえる従軍者が4名もいることは、頼朝軍の相模国進出目的には伊豆国と同様に国衙を掌握して、地方行政権を行うことがあり、この要員としてであり、頼朝軍が単なる軍事行動を越えて、東国一体の簒奪を目的としていたことが理解できます。
(続く)
(2014.06.10)