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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

伊勢神宮(1)二見浦・猿田彦神社

2022年05月31日 16時57分33秒 | 観光(日本)

2022年5月25日(水)~27日(金)、クラブ・ツーリズム主催の「伊勢神宮と絶景伊勢志摩巡り3日間」で旅行をしました。観光地旅程は、

1日目 二見浦・夫婦岩(二見興玉神社)、猿田彦神社 ホテル&リゾーツ伊勢志摩泊

2日目 伊勢神宮・外宮、横山展望台、神明神社 同泊

3日目 伊瀬神宮・内宮、おかげ横丁、朝熊岳・金剛證寺、朝熊山展望台

です。

11時39分、新幹線の豊橋駅で下車し、バス移動で観光開始です。伊勢神宮参拝の順路は二見浦(立入浜)での沐浴ということで、最初の訪問地は二見浦です。現在は実際の沐浴は行わず、当地の二見興玉神社参拝で始めます。13時25分、到着です。写真1は、夫婦岩です。鳥居のある大きい岩が男岩(高9m)で、小さい岩が女岩(高4m)です。二つの岩を結ぶ大注連縄は長35m、男岩に16m、女岩10m巻かれて、岩間が9mです。夫婦岩間の日の出は5~7月頃が見頃です。

さらに進んだところにあるのが、写真2の、二見興玉神社で、南に夫婦岩が見えます。

写真3は、少し進んだところからの夫婦岩です。

写真4は、先の突端部からの夫婦岩です。

写真5は、戻り夫婦岩を望む鳥居脇のカエルから撮ったものです。

写真6は、帰る前に今までと逆面から夫婦岩を撮ったものです。

16時10分に出発し、本日最後の訪問地猿田彦神社に16時28分に到着しました。写真7は、神社正面から鳥居と奥に本殿を撮ったものです。

写真8は、本殿で祭神は猿田彦大神です。

写真9は、横からの本殿です。

最後の写真10は、本殿奥にある後神田です。5月5日、御田祭が執り行われ、田植えが行われ、その際の植方・囃方の装束は桃山時代を模したものです。

16時59分、出発し、勢乃國屋で伊勢エビと松阪牛の郷土料理の夕食後、18時55分、志摩のホテル&リゾーツ伊勢志摩にて宿泊です。

(2022.05.31)

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奥州合戦の藤九郎盛長―歴史雑感〔75〕―

2022年05月06日 22時12分08秒 | 日本史(古代・中世)

武蔵武士足立遠元の年少の叔父藤九郎盛長は周知のように伊豆流人時代から源頼朝に近侍して側近でした。治承・寿永の内乱当初には頼朝の使者として味方集めに奔走しましたが、石橋山合戦は別として戦場に出ることはありませんでした。

『吾妻鏡』文治5年7月19日条に見るように、奥州合戦に出陣する中軍総帥源頼朝の鎌倉進発行列交名で、武士御家人として先頭の三浦一族、次いで小山一族、畠山一族に続いて、藤九郎盛長と足立遠元が土肥一族に挿まれて所見するのです。ここに足立一族の一員として盛長も奥州合戦に出陣したのです。

8月10日、奥州藤原氏の防御線の阿津賀志山を突破した中軍は、12日、陸奥国府の多賀城に入り、さらに進軍を続けました。14日、物見岡(宮城県富谷市三ノ関)を小山朝政・下河辺行平等の小山一族が攻撃し敗退させた(『吾妻鏡』文治五年八月十四日条)。

本合戦について、『吾妻鏡』同月18日条に、

藤九郎盛長預り囚人筑前房良心、盛長相い具し下向す。しこうして去る十四日、於物見岡において合戦の間、討泰衡良従等を討つ。仍て其功を募り、令厚免せしむの由仰せ出る。これ刑部卿忠盛朝臣の四代孫、筑前守時房の男なり。屋嶋内府誅戮の後、召し預けられるところなり。僧たるといえども、武芸に達せしむの間、今度これを相い伴うとうんぬん。

とあります。すなわち、盛長の所に召し預けていた平家囚人の筑前房良心は物見岡合戦で泰衡郎従を討った戦功で赦免されたのです。盛長は良心が僧ですが武芸達者なので従軍させたのです。このように、囚人が奥州合戦に参戦した例は、藤原親能預りの長井斎藤実盛外甥の宮六傔丈国平があり、親能は初陣となる猶子の大友能直に付けて阿津賀志山合戦に参戦させています。(『吾妻鏡』文治5年8月9日条)このように、奥州合戦は全国動員をかけると共に、囚人といえども利用できる戦力は惜しみなく投入したのです。

本合戦で筑前房良心が単独で戦闘に参加したわけではなく、盛長勢の一員、ひいては足立氏勢の一員として参戦したとするのが当然なのです。『吾妻鏡』同月18日条から盛長、ひいては足立氏が実際の戦闘に参加したしたことが理解できます。足立氏にとっては、治承・寿永の内乱では頼朝の親衛隊的立場から鎌倉に拘置されていたのに対して、奥州合戦では本格的に戦闘に参加したことになります。そして、良心の戦功は預主の盛長の戦功ということになり、奥州合戦での武功により陸奥国安達郡と出羽国大曽根荘を新恩として獲得したとの推定を裏付けることになるのです。そして、盛長から安達郡は弥九郎景盛、大曽根荘は藤次時長に分与され、それぞれが安達氏、大曽根氏となるのです。

(2022.05.06)

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