2022年1月2日(日)、12時50分前に最後の訪問地、山中城跡に着きました。本城は永禄年間に後北条氏が対武田戦の西の境目の城として築いたとされています。豊臣氏との緊張関係が高まった天正15年(1587)頃から改修工事が始まり、開戦前の17年(1589)に南北に東海道を扼する尾根に出丸、岱崎出丸が築かれます。そして、18年(1590)3月28日、豊臣軍先鋒の豊臣秀次を総大将とする約3万5千の大軍が玉縄城主北条氏勝を総大将とする後北条軍約4千と激突します。第一陣に一柳直末が大手口、中村一氏が岱崎出丸攻略担当となり、第二陣に山内一豊が続行します。この予備隊として堀尾吉晴と田中吉政が控えました。一方、搦手に当たる西櫓・西ノ丸には徳川家康が攻略を担当しました。早朝より開始された攻撃に対して、後北条軍は凄まじい射撃で応え、攻撃は一字頓挫し、一柳直末は銃弾に当たり戦死しました。中村隊の先鋒侍大将の渡辺勘兵衛了が一番乗りを果たし、これを突破口に中村隊は岱崎出丸を占領します。ここで中村隊の攻撃は頓挫します。一方、徳川隊は西櫓・西ノ丸の西斜面(堀)を登り占領に成功します。これにより、戦闘の勝利はないと判断し北条氏勝を脱出させたことで、城兵は動揺し、渡辺勘兵衛等は三ノ丸に突入します。また、徳川勢も元西櫓、二ノ丸と突入し、両勢はほぼ同時に本丸に突入し城は申下刻(16時)頃に陥落します。こうして豊臣軍は初戦において力攻めをかけ、後北条氏の箱根山防衛最前線である山中城を陥落せました。これにより、本城で豊臣軍を拘束し時間を稼ぎ、その間で小田原本城の主力軍を箱根山に布陣させ、箱根山決戦を行うという後北条氏の戦略が破綻したことになります。この結果、豊臣軍主力は抵抗なく小田原城へと進撃したのです。以上、山中城攻防戦は後北条氏攻略のエポックとなった戦闘です。
写真1は、国道1号線(東海道)脇の広場に設置された山中城跡案内図です。
まず城南部地域の岱崎出丸から見学します。写真2は、国道右(東)から出丸に入ったところで、岱崎出丸を南へと撮ったものです。
写真3は、進んで逆に岱崎出丸を北に撮ったものです。
写真4は、御馬場曲輪と西側の土塁です。
写真5は、御馬場曲輪南端から南に撮ったものです。前面に堀が巡らせてあり、右の土塁の先に角張ったところが城最南端の擂鉢曲輪見張り台です。
写真6は、御馬場曲輪南堀です。
写真7は、御馬場曲輪を下り、岱崎出丸南地区です。
写真8は、出丸の西側を防備する、復元整備された一の堀です。堀底から土塁まで高18~20m・斜度70度の空堀で、写真のように堀底に畝傍を残して侵入兵の左右の移動を妨害します。
写真9は、一の堀を南へと撮ったものです。急峻なことが分かります。
写真10は、擂鉢曲輪からの富士山です。
写真11は、擂鉢曲輪です。地面を掘り下げて擂鉢状にしたことからこの名称となりました。
写真12は、岱崎出丸南地区からの御馬場曲輪です。
国道へと戻り、本城の北地域に向かいます。まず、三ノ丸堀があります。写真13は、北の先端から南に国道側へと撮ったものです。当時の東海道は岱崎出丸北に接した三ノ丸を通過して箱根山に至ります。すなわち、三ノ丸を抜かない限り東海道は通れないのです。三ノ丸地区は人家等があり、発掘復元が出来ません。
写真14は、左が西ノ丸土橋、奥が西ノ丸、右が元西櫓下の堀です。
写真15は、西ノ丸です。
写真16は、西ノ丸西側土塁です。
写真17は、西ノ丸見張り台からの富士山です。
写真18は、西ノ丸・西櫓間の四角に障壁を設けた障子堀です。
写真19は、出撃地点となる西櫓(角馬出)です。
写真20は、西櫓の堀で、ご覧のように畝傍造りとなっています。
写真21は、西ノ丸・西櫓間の障子堀です。
写真22は、西ノ丸・本丸下を北に進んだところにある北ノ丸です。
写真23は、本丸北西隅の天守櫓跡です。
写真24は、本丸です。
写真25は、本丸・二ノ丸間の堀です。
写真26は、二ノ丸です。
写真27は、二ノ丸上からの元西櫓、西ノ丸です。
写真28は、二ノ丸架橋です。これで本城見学は終わりです。
最後の写真29は、三ノ丸に位置する宋閑寺内にある一柳直末墓です。傍らには後北条氏の松田康長等の墓もあり、敵味方が同所に葬られているのです。以上で訪問地は終わりで、14時50分に出発し、横浜に予定より30分早く17時に到着し、ツァーを終えました。
なお。フォト・アルバム「山中城跡」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng719e5QyryDXs0xVsQ?e=fHHc7iです。
(2022.01.14)