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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

無量光院跡―歴史雑感〔61〕―

2020年07月19日 13時08分16秒 | 日本史(古代・中世)

2020年6月26日(金)午前、平泉探訪の最後として無量光院跡(岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立地内)を訪れました。『吾妻鏡』の記するところによれば、本院は宇治平等院を模して奥州藤原氏3代秀衡が建立し、新御堂と号しました。発掘調査により四囲は東西約240m、南北約270m、面積約6.5haと推定されています。境内は周囲を囲む土塁と3つの島を持つ園池から構成され、最も大きな中島に東向きに阿弥陀堂が建っていました。現在復元整備中で、全面的な立入りはできません。す。

写真1は、道路側(東)から入ったところから園池を撮ったものです。中央が中島です。

写真2は、南側へと撮ったものです。

写真3は、南側から園池を撮ったものです。

最後の写真4は、園池の中島を拡大したものです。

以上で、平泉探訪は終わりです。奥州平泉氏が建立した寺院・居館(中尊寺は原存ぜず)には園池が設けられていました。園池は平泉文化の一つの特徴ともいえましょう。

奥州藤原氏を滅亡させた源頼朝は鎌倉帰還後に中尊寺二階大堂を模して永福寺建立を行います。園池を伴う永福寺は全体的に毛越寺を模したものと思えます。永福寺に関しては、「鎌倉永福寺遺址―歴史雑感〔35〕―」をご覧ください。そして、両寺を比較してみてください。

(2020.07.19)

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柳之御所跡―歴史雑感〔60〕―

2020年07月18日 14時49分58秒 | 日本史(古代・中世)

2020年6月26日(金)午前、高館から南に国道4号線平泉バイパスを左(東)に見て歩くと、柳之御所跡(岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所)に至ります。本御所は奥州藤原氏の政庁・居館とされる、『吾妻鏡』のいう「平泉館」と推定されています。周囲を空堀で囲まれた本御所(約5㏊)は、ほぼ北西・東南を主軸とする長径(南北)約350m強・短径(東西)約200m余の変形楕円形をした、大規模なものです。さらに、堀の北側に高館までの外郭部があり、以上の総面積は11.2㏊もあります。

写真1は、柳之御所跡北入口(柳之御所史跡公園)から東に平泉バイパス方向へと遺跡を撮ったものです。これから遺跡を南へと行きます。

写真2は、汚物廃棄穴群跡です。この周辺に40基ほどの跡が見つかっています。ここは御所跡の最北に位置しており、中心建物付近の汚物廃棄穴からの最終処分場と推定されます。

写真3は、付属建物群です。厨や家来達の詰所等と推定されています。

写真4は、井戸跡です。64基の井戸跡が見つかっています。

写真5は、北へと付属建物跡群を見たものです。

写真6は、付属建物群の東に接した竪穴建物跡です。東西7m・南北8mの竪穴に柱を立てた建物です。北側と東側に張出しがあります。

写真7は、付属建物跡群の南に位置する西側の中心建物跡です。東西約11m、南北約14mの広庇を持つ建物です。東側の中心建物跡は南北約25mです。

写真8は、東側の中心建物跡の南にある廊下状建物跡を南に撮ったものです。

写真9は、廊下状建物跡の東にある厩跡です。中心建物に付属するものです。掘立建築です。

写真10は、付属建物跡の南に接した倉庫風建物跡です。

写真11は、南に道を挟んだところにある廃棄穴(井戸)跡です。井戸跡の深さは約3.5mあり、多くの木材が廃棄されていました。この南に接して園池があります。

写真12は、中心建物跡の南西に位置する園池を北から撮ったものです。新・旧2時期の池があり、新しい方を復元整備したものです。大きな中島があります。

写真13は、南から園池を撮ったものです。

写真14は、西へ無量光院への道です。橋状の施設が発掘されています。

道路(国道206号相川平泉線)を挟んで南に柳之御所跡が広がります。写真15は、堀に架かる橋跡です。3か所が確認されています。

御所の周囲には2本の空堀があります。ただ、時期が異なり併存していたわけではないようです。発掘では約500mの空堀が確認されています。写真16は、御所南東側の内側の堀跡で、復元整備したものです。幅14m・深さ4mの大きなものです、3代秀衡期には南側では内側の空堀で囲まれていたと考えられています。なお、後方の建築中の建物は展示館等です。

写真17は、南に伽羅御所への道です。南の空堀に橋跡が確認されています。

最後の写真18は、南側の空堀跡です。

(2020.07.18)

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中尊寺―歴史雑感〔58〕―

2020年07月16日 14時42分15秒 | 日本史(古代・中世)

2020年6月26日(金)午前、伝源義経妻子墓に次いで、天台宗東北総本山の関山中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202)を参拝しました。慈覚大師円仁の創建と伝える本寺は奥州藤原氏初代清衡が平泉の関山に多宝寺・二階太堂・金色堂等を造営し、現在に至ります。ただ、現存するのは国宝金色堂のみです。

写真1は、中尊寺入口です。月見坂の参道を上ります。

写真2は、八幡堂です。源頼義が安倍氏追討をここ月見坂で祈願したといわれています。

写真3は、辨慶堂です。

写真4は、本堂です。

写真5は、金色堂です。コンクリート製の覆堂で覆われています。

写真6は、重要文化財の白山神社能楽殿です。白山宮(神社)は清衡が本寺の北の鎮守として造営したものです。能楽殿は嘉永6年(1853)に伊達藩主慶邦が再建寄進したものです。

写真7は、同じく白山神社能楽殿です。

最後の写真8は、白山神社能楽殿の舞台を撮ったものです。

(2020.07.16)

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毛越寺―歴史雑感〔57〕―

2020年07月06日 14時12分34秒 | 日本史(古代・中世)

2020年6月25日(木)午後、観自在王院に続いて、西に隣接した医王山毛越寺金剛王院(岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58)を参拝しました。本寺は慈覚大師円仁創建と伝えています。奥州藤原氏2代基衡が久安6年(1150)末から保元元年(1156)までの約6年間に金堂円隆寺以下の建築物・庭園を建立したと推定されて、さらに3代秀衡が造営を継続しました。この様は、「基衡これを建立す。まず金堂円隆寺と号す。金銀を鏤し、紫檀赤木等を継ぎ、万宝を尽し、衆色を交える。本仏薬師丈六を安ず」(『吾妻鏡』文治5年9月17日条)等と記されています。しかし、奥州藤原氏滅亡(1189年)の37年後、嘉禄2年(1226)11月、金堂円隆寺以下が焼失しました。発掘調査により、金堂円隆寺以下の礎石が確認され、大泉ヶ池を中心とする庭園も修復整備されて往事の様を見せています。拝観時間は8時半~17時(11月5日~3月4日は8時30分~16時30分)、拝観料は500円です。

写真1は、南大門跡と奥が大泉ヶ池です。『吾妻鏡』に「二階惣門」とあるものです。

写真2は、大泉ヶ池です。池の奥が金堂円隆寺跡です。南大門から池の中島へと橋が架けられて円隆寺に通じています。ここから池を時計回りに行きます。

写真3は、池の南西にある築山です。

写真4は、池の南西端から撮ったものです。

写真5は、池の西から北側へと撮ったものです。池際の手前の樹木のところが経楼跡で、奥が鐘楼跡です。

写真6は、池の北西端から撮ったものです。池南側中央が築山で、その奥が1989年に再建された本寺本殿です。

写真7は、経楼跡です。

写真8は、中島を経て南大門跡へです。

写真9は、池奥(西側)の七間六間の嘉祥寺跡です。本尊は丈六薬師如来でした。池から撮ったものです。秀衡の建立とされています。

写真10は、池から撮った金堂円隆寺跡です。本尊は運慶作の丈六薬師如来でした。両寺の間に講堂跡があります。金堂の両脇から回廊が池へとあり、それぞれ経楼と鐘楼に通じており、コの字型の円隆寺を形成しています。

写真11は、同じく金堂円隆寺跡です。

写真12は、金堂円隆寺跡から池へと撮ったものです。

写真13は、金堂円隆寺跡の東奥、常行堂から撮った遣水です。発掘調査により遺構が発見されたもので、これを修復整備したものです。

写真14は、常行堂東の法華堂跡です。写真には写っていませんが、この前が常行堂跡です。

写真15は、東門跡です。

写真16は、東からの池です。

写真17は、池の南東に位置する洲浜です。

最後の写真18は、少し西に行った出島石組と池中立石です。

なお、フォト・アルバム「毛越寺」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng7Jm-wqTr3J3xZPABA?e=V9MsESです。

(2020.07.06)

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観自在王院遺址―歴史雑感〔56〕―

2020年07月02日 16時34分27秒 | 日本史(古代・中世)

2020年6月25日(木)午後、平泉の観自在王院遺址(岩手県西磐井郡平泉町平泉志羅山)を訪れました。本寺院は奥州藤原氏第2代基衡の妻が建立したとされるものです。西に隣接して毛越寺があります。荒廃して水田となっていましたが、1954年(昭和29)から始まった発掘調査により、2棟の阿弥陀堂等の建物、浄土庭園の遺構が確認されました。本寺院は東西120m・南北240mの土塁で囲まれています。浄土庭園の池は舞鶴ヶ池と呼ばれ、修復整備されて、12世紀の庭園の様を見せてくれます。

写真1は、南門跡を正面に北に本寺院跡を撮ったものです。

写真2は、南門跡を入れて、西奥に毛越寺を捉えたものです。

写真3は、北へと進み、舞鶴ヶ池を正面に捉えたものです。

写真4は、舞鶴ヶ池です。手前の礎石は3間四方の伝普賢堂跡で、奥に橋が架かっているところが中島です。これから反時計回りに巡ります。

写真5は、伝鐘楼跡です。

写真6は、東北から中島を撮ったものです。

写真7は、北からの中島です。手前に池に石が据えられています。

写真8は、さらに木越の中島です。もちろんこれらの木々は修復整備に伴うものです。

写真9は、遣水と池に注ぐ大小18個の組まれた瀧石組です。西に位置します。

写真10は、さらに南西からの中島です。

写真11は、ほぼ南からの中島です。

写真12は、西土塁の車宿跡です。

最後の写真13は、西門跡と西土塁です。

(2020.07.02)

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