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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

再訪大慈寺―成都雑感〔147〕―

2019年10月30日 16時52分07秒 | 観光(成都)

2019年10月18日(金)午後、大慈寺(古大聖慈寺)を参観しました。2013年3月以来です。当時は寺周辺を再開発中(太古里)で、寺自体も修復中でした。そこで、改めて本寺を紹介します。本寺は3・4世紀創建と伝え、1600年余の歴史を持つとされています。歴史的には唐代の三蔵玄奘(602~64)が武徳5(622)年春に受戒したことで知られています。そして、南宋の代、涪州人(重慶市涪陵区、旧涪江郡蘭溪邑)の蘭渓道隆(1213~78)が13歳にて本寺で出家しました。道隆はその後、寛元4(1246)年に日本に渡り、建長5(1253)年、時の執権北条時頼の創建した鎌倉の建長寺の開山となり、日本に純禅を伝来した僧として名を残します。このように、歴史に名を残した高僧が若くして修行したのが本寺であり、日本とも関係があるのです。本寺は唐宋代に栄え、その後、明代の宣德10改修されて今日に至っています。そして、2004年4月、正式に対外開放となりました。

本寺の所在地は成都市大慈寺路(蜀都大道)23号で、拝観時間は8時~20時で、拝観は無料です。公共交通は、地下鉄2・3号線春熙路站下車です。E2出口(3号線南側)から東大街下東大街段に出て、東に行き、交差点を越して、南糠市街へと左折して北に行けば本寺です。約700mです。他に本寺北に接した大慈寺路の大慈寺路站か蜀都大道紅星路口站に停まる市内バス3路(九里堤公文站~城東客運站)・4路(茶店子公文站~成都東客站西広場站)・58路(万家湾公文站~五桂橋公文站)・98路(人民中路二段站~舜和園站)等があります。

後山門(北門)から入りました。写真1は、蔵経楼です。2階が経蔵で、1階は法堂として仏事・行事に使われています。

法堂では女性達の読経が行なわれていました。写真2が、それです。

写真3は、祖師堂です。

写真4は、大雄宝殿です。

写真5は、本尊の釈迦牟尼仏像です。また、背面壁外には阿弥陀仏像が捧持されています。

写真6は、法会の様で、釈迦牟尼仏像前の導師が読経をしています。この左右には女性の信者達が同じく読経しています。

写真7は、観音堂です。

写真8は、観音菩薩像です。祈りを捧げているところを撮りました。また、背面壁外には韋駄菩薩(韋駄天)が捧持されています。

写真9は、薬師堂です。

最後の写真10は、薬師仏像で、脇侍の左右は日光・月光菩薩像です。

(2019.10.30)

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再訪宝光寺―成都雑感〔164〕―

2019年10月28日 14時31分42秒 | 観光(成都)

2019年10月18日(金)午前、宝光寺を参観しました。2007年7月以来でした。そこで、改めて宝光寺を紹介します。宝光寺は後漢創設と伝えられ、長江四大禅林の名刹です。成都市の北郊19kmの新都区に位置しています。約10haの敷地内に、1塔5殿16院(庭)があります。舎利宝塔、山門殿・天王殿・七仏宝殿・大雄宝殿・蔵経楼です。拝観は夏季が8時から17時20分、冬季が8時から17時までとなっており、拝観料は5元です。

宝光寺は後漢創立と伝えられ、最初「大石寺」と称していました。史書の確実な記載の最初は唐代の開元元(713)年ですから、伝えはともかく、1300年あまりの歴史をもつ古刹です。唐末の黄巣の乱で、四川に逃れた僖宗が当寺を行宮として滞在し、この関係で寺と舎利塔を建て直し、中和元(881)年、寺名も「宝光寺」と改められました。宋代に最盛を迎えましたが、明滅亡の崇禎年間(1640~4年)の兵火で全山焼失し土台のみが残りました。清代の康煕9(1670)年に再建されて、その後、増改築がなされ現在の姿に到っています。

成都市内からの公共交通は、地下鉄3号線鐘楼站下車後、金光路に上がり、西に行った地鉄鐘楼站でX05・X41・X44・X45路に乗車し、5停留所目の宝光寺站で下車し、北に広がる宝光街を進めば門前に到ります。徒歩も含めて所要時間は約20分です。

写真1は、山門殿です。門の左側が入寺口です。現存の山門殿は清代後期の道光15(1835)年に建てられたもので、門内の両側左右に1体の密跡金剛力士像を捧持しています。

写真2は、天王殿です。天王殿は同治2(1863)年に再建され、また、殿裏は永楽11(1413)年に創建され同治2(1863)年に再建された尊勝幢で、このことから天王殿は尊勝宝殿とも称されます。

写真3は、天王殿屋根中央の飾です。


写真4は、天王殿中央に捧持されている弥勒仏像です。殿内の左右には四天王像を捧持しています。

写真5は、正面から撮った13層の舎利宝塔です。正面に「光明藏」の額を掲げた、高30mの煉瓦造の宝塔は、唐代の中和年間(881~5)創建で、四面に仏像が彫られていますが、時代を経て今ではご覧のように少々傾いでいます。現存する寺内建築物の最古参が宝塔で、寺のシンボルともいえるものです。

写真6は、裏面から撮った舎利宝塔です。

写真7は、七仏宝殿です。咸豊11(1861)年に再建された七仏宝殿には釈迦牟尼仏像とそれ以前の六仏像が安坐しており、殿裏には韋駄天菩薩像が捧持されています。

写真8は、中央が釈迦牟尼仏像です。

写真9は、大雄宝殿です。咸豊9(1859)年に再建された大雄宝殿は約700㎡で36本の石柱に支えられた建物で、殿内中央に釈迦無尼仏像が安坐しております。「南無釋迦牟尼佛」額が掲げられています。

写真10は、一番奥にある蔵経楼です。蔵経楼は高30m・延面積約1000㎡で、道光28(1848)年の再建です。楼2階が蔵で大蔵経336冊以下が納められています。楼1階は法堂となっています。楼の左右には東・西方丈が接しています。西方丈北側の西花園にチベット仏教ゲルク派の創始者ツォンカパ(1357~1419)を捧持した密壇があり、四川の仏教界とチベット仏教の関係が深いことが察せられます。

さて、楼前の右側に羅漢堂への通路があります。写真11は、その途上にある藥師殿の薬師仏像です。左右は日光・月光菩薩像です。

写真12は、左が羅漢堂入口で、奥の建物が羅漢堂です。羅漢堂は咸豊元(1851)年創建で、ここには577体(仏菩薩20体・祖師59体・羅漢518体)の像が捧持されています。いろいろな表情をした羅漢像を目にすることが出来ます。この羅漢像は清代後期の作で、これだけの羅漢像を一同に見ることは他では望めず、圧巻といえるもので、寺内の目玉的存在といえます。

写真13は、中央奥に捧持されている千手観音像で、両側には羅漢像が並んでいます。

写真14は、第187の大力尊者です。

写真15は、第98の法王尊者です。以上の2つの羅漢像は堂の右側に位置します。


写真16は、羅漢堂から舎利宝塔へと通じる壁道です。武侯祠や徒歩草堂に見る赤色の壁ですが、こちらの方が渋い色をしています。

写真17は、同じく壁道で、出口の門の後ろに舎利宝塔が見えます。

最後の写真18は、舎利宝塔から西に入った高僧塔林、すなわち本寺の高僧の墓所です。

なお、フォトアルバム「成都・宝光寺」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng6QCAn3HivfQAQtN0Q?e=vGFNtYです。

(2019.10.28)

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論文作成について―成都雑感〔163〕―

2019年10月25日 18時20分59秒 | 教育

2019年10月17日(木)午後、西南交通大学での卒業論文の論題提出は12月ですから、犀浦キャンパスで、日本語学科学部生及び院生への講義「論文作成について」を行ないました。そこで、この概略を紹介します。


A.論文とは

研究論文とは、未知の問題設定(問)により、これを根拠に基づいて論証して、解決(答)するものです。すなわち、問題設定・論証・結論の3段階からなり、根幹は論証部分にあります。しかし、研究水準に達していない学部生の卒業論文では未知の問題設定は無理であり、これは求めません。既知の問題設定でもいいことにします。ただし、論証は自身の頭で考え出したものでなければなりません。たとえ、結果として先行論文があったとしても。

さて、問題設定はどのようにして見つけるのでしょうか。まず、何といっても自身に興味のないことでは無理です。ですから、必ず自身が興味あること、好きなことから見つけるのが基本です。この方向が定まったら、次に如何するのでしょうか。問題設定を見つけるには大きく分けて二つのやり方があります。第1は先行研究から問題を見いだす方向です。第2は資料から見いだす方向です。この二つのやり方は相互に関連しており、単純に一つのやり方とはなりませんが、どちらかといえば資料からを基本とすべきでしょう。最後に、論証に必要な資料が利用できるかと、卒論の規定分量で論文を収められる問題設定かを考慮して、最終的な問題設定を決定します。

問題設定が確定したら、論題を決定します。論題は広く一般的なものでなく、狭く具体的なものとします。例えば、「川端康成の研究」ではなく、「『雪国』から見る川端康成の美意識」というようにです。


B.研究論文といえないものとは?

1.1冊の書物や1編の論文を要約したもの。

2.他人の説を無非難に繰返したもの。

3.引用を並べただけのもの。

4.証拠立てられない私見だけのもの。

5.他人の業績を無断で使ったもの。

1~4は論文が問題設定を論証して解決するものですから、レーポートなら許されることもありますが、論外です。5は絶対条件で、これに反するものは剽窃で、研究上の泥棒といえるものです。このため研究生命を絶たれた研究者は古今東西に枚挙がありません。


C.注記の原則

論文には本文とは別に注が不可欠です。研究者にとって専門分野の論文はこの注に記してある先行論文や資料を見るだけで論文の良否についておよそ見当が付きます。論文にとって注は本文と同等の意味があると考えてください。従って、注は本文執筆と同時並行で執筆すべきものです。本文執筆後にまとめて注を記すなどはとんでもないことです。

そこで、どのような場合に注を付けるべきかを述べます。それは以下の三つの場合です。

1.説明のため  a.本文展開上、副次的な論点で本文の流れを乱す恐れのあるもの。

b.大きな問題点でも、それに拘泥していると、本筋が進まなくなるもの。

c.本文の理解上、説明を加えた方がいいもの。

基本的に本文の流れを妨げる論述には、注を付けて本筋の流れをよくする。

2.論証省略のため  先学の説に従って研究を進める場合、その出典箇所の提示。

3.引用出所のためa.直接の引用の出所。

b.自己と他人の見解の区別のために他人の見解の出所。

c.資料の出所。

2・3は「5.他人の業績を無断で使ったもの」ではないことを示すものです。注の一番基本的な原則です。

なお、注は論述の基礎として学問的な手続きを明記するものですから、常識的な事柄や研究分野での自明とされている知識(教科書的知識など)は注記の必要はありません。


以上の論文作成にに加えて、日本語学の論文での慣例的な参考文献表書式と、これに基づいた注表記を規範と実例により述べました。

(2019.10.25)

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