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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

石橋山合戦(その4)―歴史雑感〔15〕―

2014年11月25日 21時15分13秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、源頼朝軍の構成

(その2)二、大庭景親軍の構成

(その3)三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

(その4)四、合戦の経過〈椙山合戦〉

(その5)五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

 

四、合戦の経過〈椙山合戦〉

23日夜に一時戦闘を休止した両軍ですが、『吾妻鏡』では「暁天」に至り、頼朝が椙山に後退しようとしたところ、景親が暴風雨の悪天候を押して追撃しますが、大庭方の飯田家義が景親を妨害したため、この隙に頼朝が後退できたとします。次いで、翌二十四日条では、前日条が簡略なのに比して詳細に記述しています。これによると、椙山堀口辺(場所は石橋山の後方で箱根外輪山寄りと思われますが、詳細な場所は不明です)に陣を構えた頼朝に対して、景親が全力で攻撃し、頼朝さらに後方の峰に後退します。加藤景員父子・宇佐美政光兄弟・佐々木高綱・天野遠景・堀親家等が防戦しますが、乗馬は多く矢に斃され、頼朝はここで自ら矢を射て、「百発百中之芸」を見せます。矢が尽きたので、さらに後退し、高綱等が矢を射て防戦します。この間、北条時政父子も防戦しますが、疲労により峰を登れず、頼朝に追従できませんでした。また、ばらばらになった各人は頼朝を追従しようとして険しい峰を登ります。ここで、臥木に立っていた頼朝に会います。土肥実平が側にいて、「皆無事なのは喜ばしいが、人数がいては隠れることが難しいか。頼朝のことは自分が何とかする」と皆に言います。頼朝が供を許そうとすると、実平が、「今の別離は後の大幸だ。命を全うして、会稽の恥を雪げ」と重ねて言います。これにより、皆は涙を流して別れます。その後、飯田家義が頼朝の念珠を持参して来、供を願いますが、これも別れます。北条時政・義時父子は箱根湯坂(湯本)を経て甲斐国へと赴こうとし、他方、北条宗時は、平井郷を経て早川辺で伊東祐親軍に包囲されて、紀六久重に射殺されます。また、工藤茂光も歩行困難により自殺します。

景親は飛散した頼朝軍を捜索して頼朝を捕捉しようとします。この時、頼朝の隠れ場所を知っていたのにもかかわらず、梶原景時は景親の手を取って別の山に導きます。夜に入り、時政が頼朝と合流します。この時、箱根山別当行実が弟永実に食料を持たせて、頼朝を捜し求めます。永実はまず時政に出会い、時政と共に頼朝に会います。食料を献じたので、一同にとって値千金でした。その後、永実の手引きで箱根山神宮寺に至り、行実の宿坊では参詣者の出入りが激しいので、永実の家に入ります。なお、行実は父良尋の頃から為義・義朝と関係があり、頼朝の伊豆流人時代に御祈祷をしていました。

以上が『吾妻鏡』による椙山合戦の描写です。要するに、大庭軍の早朝からの追撃に、頼朝軍は追いまくれ、後退を重ねて、各人が散り散りとなり、ようやく頼朝は箱根山外輪山に潜んで、夜に入り、箱根山別当行実の与力で箱根山神宮寺に隠れることが出来たのです。

『延慶本平家物語』での合戦の記述はどうでしょうか。まず、暁方(未明)に頼朝軍は土肥へと後退します。この時、頼朝はこの後陣にいて矢を射返せと言いますが、誰も答えずに後退します。堀口まで後退したところで、加藤景廉・佐々木高綱等が反撃し、矢が尽きて後退したところで夜が明け、24日辰刻(8時)にさらに上の山に至った時、荻野五郎末重(俊重)父子等が追いすがり、頼朝が一人で返し矢を射ます。頼朝の矢は末重の鎧の袖を射貫きます。大見平次(家秀)もこれに加わり防ぐ間に、頼朝は椙山に後退します。沢宗家はここで戦死します。工藤茂光も自害します。北条宗時は伊東祐親軍に討ち取られます。頼朝が臥木に腰を下ろしているところに皆が集まりますが、固まっていると安全でないというので、各自が落ちていきます。北条時政・義時父子は甲斐国へと向かいます。加藤景廉と田代信綱は伊豆国三島社に隠れ、さらに兄景員と合い、甲斐国を目指します。ほかの人々は伊豆・駿河・相模等の山に隠れます。頼朝に同行したのは土肥実平等6人です。

『延慶本平家物語』では梶原景時のエピソードが見えない点を除くと、頼朝軍が大庭軍に押しまくれ後退を重ね、頼朝自身も矢を射て防戦したと、合戦経過は『吾妻鏡』と基本的に変わりません。しかし、合戦後の箱根山別当行実の件は触れておらず、頼朝の隠れている経緯は述べていません。また、時政が頼朝に出会わずに、甲斐に向かったとしています。

さて、この敗戦で頼朝は如何して生き残ることが出来たのでしょうか。頼朝に最後まで供をした武士は、『延慶本平家物語』によると、土肥実平、子息遠平、甥実重(『系図纂要』第八冊では遠平弟)、土屋宗遠(実平弟)、岡崎義実(『系図纂要』第八冊により、実平姉妹が妻)と実平家人七郎丸の6人です。すべて、実平縁者です。このことは、実平の本拠地は土肥郷であることから、箱根山南部外輪山(土肥郷後背地)の地理に両軍中で一番精通しており、実際に供をした武士が上記の面々であるかは物語の性質上確定できませんが、実平が一族をあげて頼朝を保護せんとした象徴的人々といえます。すなわち、戦場地とその後背地である箱根山を地元とした土肥一族の存在です。この地元の地理に精通した土肥一族の全力を挙げた支持が、敗戦後の頼朝の逃走に何よりも力となったことです。従って、『吾妻鏡』の記す箱根山別当行実の弟永実と頼朝の出会いは偶然のものではなく、石橋山合戦開始に際して、兵力差から敗戦を予期した実平が、敗戦後の逃走に備えて、事前に何らかの連絡を行実にして、敗戦後も連絡を保ったとみるべきです。また、その後、北条時政が甲斐国へと赴こうした時、行実と同宿の南光房が道案内として、「山臥の巡路を経て」(『吾妻鏡』同月廿五日条)とあるように、永実の行動には箱根山の修験道としての経験が利したといえましょう。土肥一族と箱根山修験道の存在が頼朝を助けたのです。

頼朝の箱根山への具体的な逃走路は史料からは明確には読み取れないので、確実なことは分かりません。この点に関しては、湯山学氏が、『相模武士』第3巻中村党・波多野党2011年戒光出版において、伝承を加味しつつ考証されており、推定逃走路を地図化しています(頁27図3)。これを参照して下さい。

(続く)

(2014.11.25)

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