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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

冬の久保田城―歴史雑感〔23〕―

2016年01月24日 14時39分54秒 | 日本史(近世・近代)

関ヶ原合戦により、常陸国水戸城より出羽国へ減転封された佐竹義宣は、1603年(慶長8)5月、旭川に東面する明山に築城をはじめ、翌年8月に完成させます。これが久保田城(秋田城)です。平山城で、東南角に大手門があり、基本的に三の丸・二の丸・本丸・北の丸・西曲輪から構成されて、二の丸・本丸は千秋公園として市民の憩いの場となっています。2016年1月21日(木)、秋田市に寄ったおり、本城を訪れました。そこで、雪で覆われた久保田城の写真を少しばかり紹介します。

写真1は、大手門跡近くから西へ見た大手堀です。奥に見える中土橋橋跡を渡り北進すると、内堀にかかる唐金橋跡を過ぎ、右に緩い坂を上り松下門跡から二の丸に入ります。

写真2は、本丸の東側に位置する二の丸から緩い長坂を上ったところにある長坂門(二ノ門)跡です。奥に見えるのは表門です。写真に見えますが、本城は、土塁の押さえとしての石垣以外、この築城時代には一般化した防御施設としての石垣がないのが特徴です。それに天守閣も設けられていませんでした。

 

写真3は、その復元された表門(一ノ門)で、門前の右横には御物頭御番所(唯一現存する建物)があります。

写真4は、本丸です。中央奥にあるのが最後の藩主第14代佐竹義堯銅像です。

最後の写真5は、は、本丸北土塁にある帯曲輪門跡です。帯曲輪は本丸の北から西・南側にかけて巻いて設けられています。

なお、フォトアルバム「冬の久保田城」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkQCmxrsEjR_SZ8Ngです。

(2016.01.24)

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1 コメント

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サムライソウルグローバル (神仏照覧)
2025-02-07 20:38:51
それにしても古事記はすごいよな。ドイツの哲学者ニーチェが「神は死んだ」といったそれよりも千年も前に女神イザナミ神についてそうかいてある。この神おかげでたくさんの神々を生まれたので日本神話は多神教になったともいえる。八百万の神々が中国地方の山陰出雲に集まるのは、国生み・神生みの女神イザナミの死を弔うためという話も聞いたことがある。そしてそこから古事記の本格的な多神教の神話の世界が広がってゆくのである。私の場合ジブリアニメ「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」「天空の城ラピュタ」などのの感想を海外で日本の先端的な科学技術との関連をよく尋ねられることがあった。やはり日本らしさというか多神教的文化を母体とした雰囲気が受けるのだろうか。
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