2014年7月17日(木)、伊東祐親関係遺址を訪れました。伊東祐親は同族の工藤(狩野)茂光とともに治承・寿永の内乱期の伊豆国を代表する豪族武士で、加茂郡伊東庄(静岡県伊東市市街周辺)を本貫としていました。茂光が源頼朝に組みしたのに対して、祐親は平家に組みしました。このため、富士川合戦での反乱軍勝利後、伊豆国で頼朝の捕虜となり、娘婿の相模国随一の豪族三浦義澄に預けられ、2年後の1182(寿永元)年2月14日に自殺して生涯を終えます。
写真1は、最初に訪れた葛見神社(祭神倉稲魂命=稲荷神)です。延喜式内小社「九豆弥社」に比定されるのが本社で、「葛見」は祐親祖父の家次(祐隆)が「葛美入道寂蓮」と称し、古くは宇佐美・伊東・河津3か郷を葛見庄と称したことで分かるように、同訓の葛美=葛見(くずみ)故、葛見神社は伊東氏の基盤である伊豆東海岸の中心神社であります。本社の祭神稲荷神は家次が勧進したと伝え、本社が歴代の伊東氏の崇敬を受けていたことが理解されます。鳥居奥に見えるのが拜殿で3間2間の鉄筋コンクリート製の切妻造で1965年建造です。1697(元禄10)年建造、2間四方の神明造の本殿は上屋で保護されて、拜殿の奥にあります。
本社はJR東日本伊東駅から東南に約1.2kmに位置します。駅からは道を南下して伊東大川にかかる出で湯橋を過ぎ、国道135号との音無交差点(音無神社への道案内あり)で国道に入りすぐのところで、国道に分かれて道を左(南)に取り、交差点(無信号)で道を左(東)に取り行くと神社前です。
写真2は、拜殿の左奥にある天然記念物(1933年2月28日指定)の樟です。樹齢約千年、目通り約15mという老巨木で、幹の下部は空洞となっています。なお、手前の石碑は晩年を伊東市で過ごした昭和初期の首相若槻礼次郎が寄進した「贊老樟」碑です。
葛見神社から、道なりに上っていき、左に大きくUカーブを過ぎて少し行くと、伝伊東祐親墓(伊東市大原1-10)です。神社からは約500m余です。道の左側にあります。写真3は、祐親墓と伝える五輪塔正面です。安山岩の高140.5cmで、空風輪・火輪・・水輪が14世紀前半、地輪が13世紀のものと推定されています。なお、当地には皇太子徳仁親王訪問(1980年9月)記念の碑もあります。
道を進み国道13号に出て、左に国道に入り市立東小学校を過ぎると、右の丘に市庁舎がそびえています。この手前が物見塚公園として整備されています。墓から約400m余です。物見が丘(物見塚)は伝伊東祐親館址です。最後の写真4は、この公園の市庁舎寄にある市が建立した伊東祐親騎馬像をとらえたものです。像の後方が市庁舎です。公園の左側(西)端からは伊東の海が一望できます。葛見神社の西一帯も伊東氏館址との伝承もあり、すると、平時の館は伊東大川東岸平地に位置して、詰めの館は物見が丘にあったとするのが、位置的見て、蓋然性があると考えることができます。とすれば、海を一望できる当地が物見が丘と称されたのも理解できます。
以上の他に伊東氏関係遺址として、葛見神社の別当寺であった東林寺(伊東市馬場2-2-19)、源頼朝と祐親娘の八重姫との逢瀬の場と伝える音無の森―音無神社(伊東市音無町1-12)、伊東一族の墓を供養する、音無神社西隣接の最誓寺(伊東市音無町2-3)があります。
(2014.07.19)