(その一)一、結城朝光
(その二)二、北条泰時
(その三)三、平賀朝雅
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の偏諱を受けた武士として、結城朝光(宗朝)、北条泰時(頼時)、平賀朝雅がいます。この3人は何故に偏諱を賜ったのでしょうか。この点を考えてみましょう。
一、結城朝光
治承4年(1180)8月に伊豆国で反乱に蜂起した源頼朝は石橋山合戦で一敗地の憂き目を被りますが、房総半島に脱出して、上総広常・千葉常胤等の参軍を得て再起して、武蔵国に進出します。この翌日、『吾妻鏡』同年9月2日条に、
武衛御乳母故八田武者宗綱息女〈小山下野大掾政光の妻、寒河尼と号す〉、鍾愛末子を相い具し、隅田宿に参向す。さっそく御前に召し、往事を談じせしめ給う。かの子息をもって、昵近奉公致させしむべきの由望み申す。よりてこれを召しい出す。自ら首服を加え給う。御烏帽子を取りこれを授け給う。小山七郎宗朝と号す〈後に朝光と改むる〉。今年十四歳なり。
とあるように、頼朝は自ら烏帽子を被せ元服の儀を行い、「朝」の一字を与え小山七郎宗朝と名乗らせます。時に宗朝は14歳でした。伊豆流人時代の頼朝から偏諱を受けようなどという者がいるはずなく、間違いなく彼が頼朝から偏諱を賜った第1号です。
宗朝の父小山政光は秀郷流藤原氏出身で、下総国寒河御厨(小山荘)を名字の地とし、「大掾」と称するように下野国有力在庁官人でもありました。小山氏は藤姓足利氏とともに「一国の両虎」(『吾妻鏡』養和元年閏3月23日条)と称される下野国を代表する豪族武士です。一方、母は八田(宇都宮)宗綱の娘で頼朝の乳母であり、現在は出家して寒河尼と称していました。宇都宮氏は始祖の宗円(宗綱父)が宇都宮座主(『尊卑分脉』)とあるように、二荒山神社(宇都宮)を基盤とした有力武士です。
『延慶本平家物語』第二末・廿八平家ノ人京ヘ上付事には、
折節在京したるりける関東の武士、少々維盛につきて下たりけるか、小山四郎朝政以下多く源氏の方にへ付にけれ
と、小山朝政は平維盛軍に従軍して、富士川合戦後に頼朝の傘下に入ったといえます。また、宇都宮朝綱も、『吾妻鏡』元暦元年5月24日条に「日来平家に仕えといえども、懇志関東にあるの間、潜かに都を遁れ出て参上」とあるように、平家に仕えて在京中でした。すなわち、この時点では上野国の有力武士の小山・宇都宮両氏とも平家に勤仕していたのです。
房総を制覇してようやく武蔵国に歩を進めた頼朝にとって、寒河尼が末子を連れて参上したことは少なくとも小山氏が味方になるとの意思表示であり、さらに宇都宮氏への手がかりともなるのですから、頼朝にとって大いに慶賀すべきことで、寒河尼に最高の敬意を払うべきことなのです。「鍾愛末子」とあるように、寒河尼が愛する末子に手ずから烏帽子を被せ元服を行い、「朝」の偏諱を与え、宗朝と名乗らせたことはまさしく寒河尼への最高の敬意といえましょう。また、「宗」とは宇都宮宗綱からのものですから、宇都宮氏への敬意ともなり、自陣営への取込みを期待したものといえましょう。
なお、宗朝から朝光へのこの改名は『吾妻鏡』の人名記載が正しいとすると、翌養和元年(1181)中までになされたといえ、宗朝の名乗りは短期間だったといえます。改名は父政光の一字「光」を取ることで、小山一族の一員、すなわち朝政・宗政・朝光の小山三兄弟のスクラムを見せたことになり小山氏が一族をあげて頼朝の麾下に入ったことへの表明ともいえるでしょう。
『吾妻鏡』養和元年4月7日条に、「御家人等中、ことに弓箭に達つの者また御隔心無きの輩を撰び、毎夜御寝所の近辺に候べきの由定められる」、とある11人の中に朝光は選ばれており、元服後の頼朝の身辺に仕え信頼されたことが分かる。いわば頼朝親衛護衛隊の一員となったのです。そして、下総国結城郡を本貫地とした結城氏の祖となり、朝光は有力御家人となったのです。
治承・寿永の内乱勝利後、寒河尼は「大功」ありとして、下野国寒河郡及び網戸郷を与えられました(『吾妻鏡』文治3年12月1日条)。これは寒河尼が内乱において小山・宇都宮両氏の頼朝への味方に力を尽くしたことへの報恩といえ、その最初が末子朝光を連れた参上です。朝光の子四郎時光は寒河と、十郎朝村は網戸と名乗ったことから、両地は朝光に継承されたことになります。
(2020.05.10)