2019年1月24日(木)、伊豆山神社(静岡県熱海市伊豆山上野地708番地1)を参詣しました。本神社は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、拷幡千千姫尊、瓊瓊杵尊を祭神とし、伊豆大権現・走湯大権現・走湯山・伊豆山等とも称されていました。平安時代後期には山岳修験霊場として名を馳せました。そして、関八州総鎮護とされています。JR熱海駅からは東海バス (伊豆山神社・七尾行)で伊豆山神社前下車で、鳥居前です。
本神社は鎌倉幕府初代将軍源頼朝と深い縁を有していました。平家六波羅政権に対する反乱蹶起に当たって、走湯山住侶覚淵を頼朝は招き、千部法華経読誦が日付(蹶起日)までに満たないが、大丈夫かと問うと、覚淵は八百部で大丈夫とし、蹶起は成功すると請負います。かくて、頼朝は自信を付けます(『吾妻鏡』治承4年7月5日条)。次いで、山木夜討ちに成功した翌8月18日、毎日の勤行が戦場に赴くのでこれが出来ないとして、伊豆山尼法音(北条政子帰依)に身代わりの勤行を頼朝は依頼します(『吾妻鏡』同日条)。相模国に向かう頼朝軍とは別に政子は伊豆山に隠れ、次いで秋戸郷に移ります(『吾妻鏡』9月2日条)。石橋山合戦敗戦から、房総に再起した頼朝は10月6日に鎌倉に入りますが、11日に走湯山住侶良暹(鶴岡八幡宮暫定別当)が先日の約束に従い頼朝に会います。良暹は頼朝の年来の師檀でした(『吾妻鏡』同日条)。このように伊豆流人時から頼朝は伊豆山神社に帰依しており、その全体ではないでしょうが反乱蹶起にも大いなる支援を与えられていたのです。これに応えて、治承・寿永の内乱に勝利すると、頼朝は文治4年(1188)から伊豆・箱根・三島社の「二所参詣」を行ないます。将軍の二所参詣はこれ以後恒例行事となります。以上、頼朝と伊豆山神社は深い縁があり、本神社は鎌倉幕府の厚い庇護を受けることになります。
本神社は海岸、すなわち中継ポンプ場横階段踊り場を起点として本殿前まで参道の階段が887段続きます。9時55分頃に海岸より参道を上り始めました。写真1は、その国道135号から市道上の鳥居前(437段)までの途上のものです。
写真2は、市道に到達して鳥居を撮ったものです。10時10分過ぎでした。市道から境内までは189段の参道を上ります。
写真3は、参道の途上の境内社(祖霊社・足立権現社・結明神社)を見つつ境内(標高170m)に入ったところで、本殿を遠望したものです。手前左が手水社です。見えませんがこの奥に雷電社があります。10時22分の撮影です。
写真4は、本殿拝殿です。
写真5は、本殿横全景です。
写真6は、本殿左横の駐車場内にある、「頼朝政子腰掛け石」です。ここで二人は恋を語ったと伝えられています。頼朝政子夫妻は本神社に深い由緒があり、かかる伝承を生んだのでしょう。
本殿右奥から本宮社への山道があります。10時32分、本宮社に向けて上り始めます。写真7は、最初の白山社(祭神菊理媛命)です。もちろん北陸の白山神社の分社です。10時54分でした。
さらに上ると、「子恋の森公園」に出ます。ここで道は舗装道となり楽になります。公園を過ぎるとまた山道となり少し行くと、写真8の、結明神本社(祭神結明神―日精・月精)に到着します。11時14分でした。
写真9は、最後の本宮社(祭神正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 標高380m)です。本来は日金山に祀られて、後に社はこの地に移され、さらに承和3年(836年)に現在の伊豆山神社の地に社を建造して移ったので、残った二番目の社が現在の本宮社のいわれです。江戸時代には社殿等の複数の建物がありましたが、野火により焼失して、現在に至っています。11時27分でした。
最後の写真10は、左後方からの社殿です。往時を示すように、社殿前は広闊な平地となっています。子恋の森公園から右に伊豆山神社に直行する道を通り帰りました。
なお、フォトアルバム「伊豆山神社」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngvdWDACdtF9Ebdztzwです。
また、伊豆山神社サイトはhttp://izusanjinjya.jp/です。
(2019.01.29)