歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

源義経は名将か?否〔改訂〕(その2)―歴史雑感〔20〕―

2015年07月25日 16時23分13秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

 (その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置


二、瀬田・宇治合戦

1184(元暦元)年正月20日、京都に孤立した木曽義仲軍が瀬田(勢多)と宇治に防衛線を張り、それを突破し京都に入り後白河院を保護せんとした源頼朝の派遣軍を主力とする反義仲軍との間になされたものが瀬田・宇治合戦です。大手大将軍源範頼等が瀬田(滋賀県大津市瀬田)を、搦手大将軍源義経等が宇治(京都府宇治市宇治)を攻撃します。すなわち、義経が宇治方面指揮官として合戦したのが宇治合戦です。本合戦の目的は、第1に京の後白河院の保護であり、そのためにそれを妨害する義仲軍を撃破し入京し京を確保することです。第2に、武家の棟梁の競争者としての木曽殿源義仲の排除です。

まず、右大臣九条兼実の日記『玉葉』同日条で合戦の経過を見てみましょう。東国軍が瀬田に進出した報を朝6時(卯刻)に九条兼実は告げられました。この報では、まだ渡河していません。次いで田原(京都府綴喜郡宇治田原町)からの軍が宇治に着いたことを知ります。この報が終わらないうちに、もう六条河原に兵を見たという報をえて、人を派遣して確認させると、事実でした。昨日に宇治に派遣した義仲軍の志田義広は敗退し、東国軍が大和大路より入京し、六条に達していたのです。義仲は後白河院のもとに参上しましたが、東国軍の攻撃が急なので、院を棄てて戦おうとしましたが、40騎にも満たない勢力のため一矢も射ることなく敗走し、その後、東へと義仲は敗走し、粟津辺(滋賀県大津市膳所)で戦死したと記述しています。そして東国軍の一番手は梶原景時と兼実は記しています。以上、義仲軍の敗退は急速で頑強な抵抗をすることが出来なかったのです。そして、入京した義経軍が真っ先に六条殿の後白河院を目指してきたことが分かります。なお、瀬田からの範頼軍に関しては具体的な記述はありません。

他方、合戦の経緯を子細に述べているのが、13世紀に成立した原『平家物語』の古態を保っているといわれて、『平家物語』諸本の中で史料的価値のより高い『延慶本平家物語』です。ここでは、同書第五本で両軍の構成・兵力を見てみましょう。源義仲軍は、勢多(瀬田)に今井兼平が5百騎、宇治に志田義広が3百騎、そして京中に義仲自身が那波弘澄以下百騎です。東国軍は、勢多に大将軍源範頼以下3万5千騎、主立った武士には一条忠頼、稻毛重成・土肥実平・小山朝政等、宇治に大将軍源義経以下2万5千騎、主立った武士には安田義定、畠山重忠・三浦義連・梶原景時・佐々木高綱等です。この数字自体は特に東国軍のそれが誇大化されてそのまま両軍の実数とはいえず上限となります。それにしても義仲軍は千騎にも満たないのです。一方、『玉葉』元暦元年1月16日条では近江に入った東国軍を数万と記しているように、万単位の軍といえます。したがって、両軍の間には少なく見積もっても10倍以上の兵力差があったことは明らかです。

宇治合戦は宇治川を挟んで両軍が対峙しました。義経軍は渡河し北岸に陣する義仲軍を撃破して京を目指すことになります。平場の合戦として、いったん渡河を許せばその兵力差から防衛の術はないといってよいのです。渡河の成否が合戦を左右します。

古来、大軍に戦術なしと言われるように、兵力に格差のある場合には、優勢な側はただひた押しに正攻法で攻めてよいのです。まさしく、本合戦の経過を見るに、正面からなされる多勢による早朝の敵前渡河が本合戦の帰趨を決しています。その発端として、名高い佐々木高綱と梶原景季の先陣争いがありました。志田義広を撃破した義経軍は短時間で一気に入京し六条河原に殺到しました。ここで、同書では、義仲が義経軍の畠山重忠・河越重房・佐々木高綱・梶原景時・渋谷重国と激しく戦闘を交えたと述べています。しかし、語り本系『平家物語』(屋代本)平家九之巻・河原合戦では、洛中に入った義経軍の塩屋維広(武蔵国児玉党)等に戦闘を任せて、義経自身は数騎を引き連れて直ちに後白河院のいる六条殿へと到達しており、『玉葉』の記載のように洛中ではしかるべき戦闘はないとするのが正しく、洛中での義経軍と義仲との戦闘は義仲説話としての虚構と考えます。次いで義経は畠山重忠・河越重頼・渋谷重国・梶原景季・佐々木高綱(『吾妻鏡』同日条では重頼嫡男重房も)を率いて後白河院に参上します。

一方、範頼軍は正面渡河ではなく瀬田川上流の田上供御(滋賀県大津市田上稲津町、瀬田橋の南約4km)からの迂回渡河で、義仲軍の兼平勢を撃破します。京洛から近江国に敗走した義仲は兼平と合流して敗残の兵を集めて最後の戦闘を行います。これが義仲が甲斐源氏一条忠頼と、次いで土肥実平・三浦(佐原)義連等と戦い、最後に三浦一族の石田為久によって討ち取られるという記述となるのです。ここに義経軍に所属していた三浦義連が名を連ねており、義仲を討ち取ったのが三浦一族の石田為久であることに注意して下さい。すなわち、義経軍の有力武士が宇治から義仲を追走して近江国に入っていることです。

以上の経緯を見ますと、瀬田・宇治合戦は次のような経過を取ったと考えられます。宇治方面の義経軍は宇治で敵前渡河をします。同時に宇治以外にも近辺の渡河可能地から渡河して、分進合撃で京洛を目指したとするのが自然でしょう。圧倒的な兵力差と分進合撃の前に義仲軍の義広は抵抗のすべを失い鎧袖一触されます。義経自身は急進撃して頼朝麾下の有力武士引き連れた小勢で洛中に入り、真っ先に後白河院のいる六条殿に到達して、院を保護します。そして、義仲は無勢のため後白河院を放棄して戦うことなく東の近江国ヘと敗走し瀬田の今井兼平と合流を目指します。義経軍主力は入洛することなく敗走する義仲を追走することになります。一方、瀬田方面の範頼軍は瀬田で渡河しますが、正面渡河ではなく瀬田川上流の田上供御からの迂回渡河で、義仲軍の兼平勢を撃破します。そして、洛中を目指して急進撃することなく、洛中から敗走してくるであろう義仲を待ち受けて、これと戦闘を交えて、追走する義経軍と共に義仲を捕捉し、義仲を戦死させるのです。

以上の合戦の経過は事前の準備、すなわち周到な作戦計画の作成なしにはなしえないものです。要するに作戦目的を如何に成し遂げえるかという確かな作戦計画です。作戦計画立案にあたっては当然ながら確かな情勢分析無しではなしえません。従って、作戦目的の第1が後白河院の保護である以上、一番に求められるのは後白河院の現況とこれを包括する洛中の情報です。次いで、敵である義仲軍の情報、すなわち主将義仲の現況と兵の配備情報である。洛中情報に関しては京洛にいる親後白河院派の公家達から的確な情報がもたらされたことはいうまでもないでしょう。又、義仲軍の情報も同様なことがいえます。以上の確かな情報に基づいて、次のような作戦計画が立てられたと考えます。第1に義経軍の急速な進撃による後白河院の保護で、これは義経自身が直卒する少数の兵で成し遂げる。第2に敗走するであろう義仲軍を範頼軍が捕捉殲滅することで、これには義経軍の主力が追走して包囲体制をとって成就させます。第3に洛中の混乱を最小とするため義経・範頼軍とも洛中には進駐しないことです。以上の3つの基本方針のもとに行動して、最短時間と最小損失で作戦目的を達成したのが瀬田・宇治合戦といえます。この作戦立案にあたっての範頼・義経両将と甲斐源氏(一条忠頼・安田議定)との確かな合議、及び両将配下の関東武士との意思疎通が確かであったからこそ、実際の合戦が成就することができたといえましょう。すなわち、作戦そのものは義経独自のものというより、参加軍首脳部の合意といえるものです。

合戦での頼朝麾下の有力武士をみると、範頼軍には小山朝政兄弟・稻毛重成兄弟(畠山庶流)・土肥実平、義経軍には畠山重忠兄弟・三浦義連・梶原景時父子・佐々木高綱・渋谷重国が所属しています。この顔ぶれから、関東から上洛した武士の主力は義経軍に配属されたことになり、義連を除く武士が義経と共に後白河院に対面しています。この配属は鎌倉進発時から決められていたというより、近江国での最終作戦決定にあたっての配属ではないかと考えます。そして、当時の頼朝麾下の三大氏族の筆頭である千葉一族が参加しておらず、また第2位の三浦一族が庶流の佐原義連のみが参加して、嫡流義澄や和田義盛が参加していないことは、今回の上洛軍が全力投入ではなく、関東に有力武士を拘置したものであることを示しています。なお、本合戦での東国軍の編成は大手・搦手ともその兵力比はともかく頼朝派遣軍と甲斐源氏軍の合同軍です。すなわち、大手軍の大将軍は源範頼と甲斐源氏の一条忠頼(武田信義嫡男)、搦手軍の大将軍は源義経と甲斐源氏安田義定(信義叔父)です。この東国軍に畿内近国の反義仲の武士が参集して、義仲軍を圧倒する大軍となったのです。

以上、この瀬田・宇治合戦に見る東国軍の行動は、まさしくその目的に適っていることが分かります。とりわけ、第1目的である後白河院の保護を義経は最優先に行動したことが分かります。その際、指揮下の有力武士をともない、彼らに戦功・名誉を与えています。こう考えますと、義経の行動は本合戦の目的と指揮下にある東国武士の希望に叶うものです。この意味で本合戦の指揮官として義経は合格ということになります。

しかしながら、先に触れたように、大軍に戦術なしの喩えどおり、本合戦では指揮官がその戦術的能力を発揮するまでもなく、東国軍の勝利は当然のことです。したがって、義経が他者にない力量を発揮したから、本合戦に勝利したとはいえないのです。その意味で、本合戦から義経が卓越した戦術能力をそなえた将軍であるかは判定できないのです。ただいえることは、初戦において義経は自己の任務をまっとう出来、それにより自信をつけただろうことは言えます。

(2015.07.25)

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源義経は名将か?否〔改訂〕(その1)―歴史雑感〔20〕―

2015年07月15日 00時15分58秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

(その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置


一、はじめに

治承寿永内乱での活躍にもかかわらず、異母兄頼朝と対立して奥州平泉で悲劇の最後を遂げたことで、義経は中世以来現在にいたるまで悲劇の英雄として大衆の人気を博しています。それは、『義経記』があっても、『頼朝記』がないことでも明らかです。

故司馬遼太郎氏が、日本では例外ともいえる騎兵戦術の運用の才があり、天才的武将と評価していることに代表されるように、一般の方にも義経が名将であることは定説化しています。ドラマ・映画でもそう描かれ、一谷合戦はそのハイライトになっています。

しかしそうでしょうか。名将とはなんでしょうか。どう定義されるべきでしょうか。「戦(いくさ)」に強い。普通はそう考えるでしょう。では「戦」とはなんですか。複数の国が参加し千万人を越える兵力が投入された、第2次世界大戦もあれば、隣りあった家が争う数人規模のものもあります。「戦」といっても千差万別なのです。したがって、「戦」に強いといっても如何なるレベルの「戦」であるかが明らかにならなければなりません。

あらためて治承・寿永内乱における義経の立場を考えてみましょう。周知のように、東国の武士に担がれ伊豆国に挙兵した異母兄頼朝は対平家戦において自身では出陣せず、おのれと主従関係にある東国武士を主力として西国に派遣しました。その西国派遣軍の最高司令官の一人が義経なのです(もう一人は異母兄範頼)。当然のことながら、指揮下にある東国武士はそのほとんどが彼と主従関係になく、兄頼朝の預けたものです。したがって、義経は頼朝代理として出陣している以上、兄頼朝の代弁者であり、ひいては頼朝が東国武士に担がれている以上、その代弁者でもあります。そのためにこそ義経は最高司令官であることができるのです。

義経の立場が明らかになれば、その評価において、その立場において何をなさなければいけなかったことから判断を下すのが当然となります。

頼朝、ひいては東国武士は何ゆえに、反乱に立ち上がったのでしょうか。彼らの目的は何でしょうか。これに関しては歴史研究上からいえば、かならずしも一つの見解に集約されるものではなく、異なる意見があります。むしろ複合した目的があったといってもいいでしょう。この点を論じるとそれだけで大部の論文ができますので、ここでは論証を抜きに簡潔な結論のみを示します。「国は国司に随ひ、庄は預所に召し使はれ」(『平家物語』巻第四)と表現されているように、従前の京都(公家)に従属した地位を脱却しておのが自立を果たさんとするものです。平将門の夢はそのための最終地点たりえたでしょう。近来の歴史研究の成果からいえば、武士の自力救済原理の確立です。もちろん、これのみでは武士間の紛争を止めることできないです。個々の武士の上に立つ武家の棟梁がその調停・裁定者の役割を果すこと(統治的支配権)になります。頼朝を担いだ東国武士は、彼に武家の棟梁の役割を求め、かつ自力救済原理にもとづく京都に自立した権力を打ち立てんと欲したのです。むろんそれは願いであって、実際の歴史の動きの中で妥協はありえますが。

では個々の武士は何を求めたのでしょうか。なぜ頼朝に代表される武家の棟梁と主従関係を結んだのでしょうか。当然ながら「一所懸命」の言葉が表すように自己の土地に対する権利の保障を求めるからです。それに加えて、その土地の拡大を果たしてくれることです。すなわち本領安堵と新恩給与です。これを保障してくれるからこそ、武士は棟梁のために自己の命を賭す、すなわち「奉公」を尽くすのです。この「御恩」と「奉公」の関係(主従的支配権)が中世武士団の基本です。棟梁はそのためにこそ存在するのです。

かかるように、総体的に京都に独立した自力救済原理の確立、個別的には本領安堵と新恩を求めて、東国武士を中核として全国に反乱が拡大したのが治承・寿永の内乱(源平合戦)です。頼朝はその嚆矢であり、そのもとに東国武士の多くが結集したのです。

以上のように、東国武士が反乱に参加したと考えます。

このことに立脚してこそ、義経の評価ができるのです。

1180(治承4)年10月、富士川合戦で源氏軍勝利直後に、義経は頼朝のもとに奥州より参加しました。その後、1183(寿永2)年7月、平家を都落ちさせて、入洛した木曽義仲は次第に孤立し、一方京の後白河院は東国の頼朝に救援を求めました。そこで、頼朝の代官としてこの冬、少数の兵を率いて上洛したのが義経です。これが義経の中央への登場の最初です。この後、宇治合戦・福原合戦(一谷合戦)・屋島合戦・壇浦海戦と連戦連勝したことは周知のことです。

そのいずれの合戦においても頼朝代理としての西国派遣軍最高司令官が義経の立場です。そこで改めて、これを基本において個別の合戦での義経の役割とその評価を考えて見たいと思います。

なお、日記類に代表される同時期史料では各合戦の経過などの詳細には触れておらず、具体的な合戦経過を知ることはできません。したがって、『平家物語』諸本をも利用するしかないのです。『平家物語』はいくつかの説話群、例えば義仲説話、からなっており、義経説話もその一環です。これらは基本的にその周囲で起きた出来事も彼一人の出来事と集約されており、かならずしも彼自身の行動と保障することはできないのです。しかもこれらには、悲劇の英雄として描く立場があってなおさらです。それですから、真の合戦の経過とそこにおいて義経がどう行動したかは『平家物語』諸本だけでは明証されないのです。この限界を心得て以下において個別合戦の分析を行いたいと思います。

(続く)

〔付記〕  『歴史と中国』「源義経は名将か?否―歴史雑感〔1〕―」(2004年12月1日付)以下を改訂したものです。今後の続きも同様になります。

(2015.07.15)

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