源義経は「九郎判官」として知られているように、義朝の9男であり、このことは『尊卑分脉』第四篇に、義平・朝長・賴朝・義門・希義・範頼・全成・円成・義経の順に記載されていることからも確かめられます。
ところが、『吾妻鏡』文治5年閏4月30日条の奥州平泉の衣川舘に藤原泰衡勢の襲撃を受けて自害した記事で、その官暦冒頭に「左馬頭義朝々臣六男」と記載されています。ここでは義朝の6男とされているのです。『吾妻鏡』治承4年10月21日条の義経の初見記事、すなわち賴朝との初対面記事では「奥州九郎」と表記されおり、以後左衛門尉に任官するまで、一貫して「九郎」の表記に変化はありません。6男とするのは上記の条のみなのです。これは不可思議な表記です、何を基準としてかかる表記となったのでしょうか。改めて考えてみます。
義朝の男子で僧籍に入ったのは義経の同母兄の全成・円成の2人です。『本朝皇胤紹運録』(群書類従第五輯・系譜部)では法親王が設けられると、以後の系譜の男子は親王そして法親王の順で記載されています。『尊卑分脉』藤原氏では、公家系譜の男子は俗人・僧籍の順に記載されおり、武家系譜の男子では僧籍は例外的に少なく俗人の後となっています。同書清和源氏では、俗人と僧籍を混在している場合と、俗人・僧籍の順となっている場合があります。特に義家五男為義嫡男義朝流では混在となっています。そこで、『吾妻鏡』は義経自害記事においては公家に倣ったとすれば、俗人として生涯を終えた男子の順であり、義経は7男となります。
ですがまだ一人足りません。『尊卑分脉』のみに見え、他の史料での確認が出来ず、若死にしたと考えられている義門が『吾妻鏡』執筆時期の他の系譜類に所載がなかったとしたら、一人減り6男となりましょう。そこで、『義経記』巻第二・遮那王殿元服の事で、
左馬頭殿の子ども、嫡子悪源太、二男朝長、三男兵衛佐、四蒲殿、五郎げんじ君、六郎は卿の君、七郎は悪禅師の君、我は左馬八郎とこそ云はるべきに、保元の合戦に叔父鎮西八郎名を流し給ひし事なれば、その跡をつがん事よしなし。末になる共くるしかるまじ。我は左馬九郎と云はるべし。
と義経は宣言します。ここでは義門は不在で、義平・朝長・賴朝・範頼・希義・義円・全成そして義経が8男となっています。そして、本来は八郎と名乗るところが、叔父の鎮西八郎為朝が有名であり、この跡を継ぐのは憚るので、玄人称するのだと義経は宣言します。『義経記』の成立は南北朝・室町初期とされます。すなわち、『義経記』では兄弟の順は『尊卑分脉』と異なり、かつ義門は存在せず、8男義経の認識ということになります。
この8男義経の認識は何時生まれたのでしょうか。『吾妻鏡』が義経を6男と表記していることは僧籍の2人を除いたことで表記といえますから、6男とは8人兄弟の末弟ということになります。すなわち『義経記』の認識と一致するのです。『吾妻鏡』は何らかの史料に基づいて、義門は存在せず義朝の男子は8人兄弟と認識したことになります。すでに『吾妻鏡』執筆時時と考えられる鎌倉後期に義門がおらず男子が8人兄弟との史料(系譜類など)が存在していたことになります。ただ、『義経記』の述べるように、八郎為朝を憚って九郎と義経自身が仮名を改めたというのは、他に裏付けがなく、本当とはいえないかもしれません。いじょうで、『吾妻鏡』が義経を6男と表記したことが理解できましょう。
ですが、摂関家九条兼実の日記『玉葉』の初見である寿永2年閏10月17日条に「賴朝弟九郎」と記載されているように、義経生存中に「九郎」と称されていたのです。いわば、義経が「九郎」であることは周知の事実であったのです。とすれば、『吾妻鏡』執筆者はこのことを当然ながら知っており、だからこそ他の記載では「九郎」と表記したのです。そうならば、何故義経自害記事の官暦に6男と記したかやはり謎です。九郎と6男との間に整合性がないからです。この点を謎として残しておきます。
(2017.03.30)