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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

2019年秋終末の天府広場―成都雑感〔149〕―

2019年11月04日 08時30分25秒 | 観光(成都)

2004年から開始された地下鉄工事に伴い、天府広場は再開発され、2007年2月に新装オープンがなされ、2010年10月に地下鉄1号線開通により天府広場站が開業し、次いで2013年9月に地下鉄2号線が開通して、乗換駅となり天府広場は完成しました。2019年10月19日(土)午後、天府広場に久しぶりに訪れたので、これを紹介します。

写真1は、広場南東角から入って撮ったものです。右から毛沢東立像、東魚眼龍騰噴泉(地下が商店街と地下鉄入口となっています)、西魚眼龍騰噴泉を写し込んでいます。

写真2は、東魚眼龍騰噴泉を中心に地下を写し込んだものです。

最後の写真3は、毛沢東立像を背景に記念写真を撮る親子を写し込んだものです。以上3枚の写真には全て毛沢東立像を入れています。

(2019.11.04)

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2019年秋週末の春熙路―成都雑感〔148〕―

2019年11月02日 16時59分01秒 | 観光(成都)


中山広場を中心に東西南北に広がる春熙路は成都の中心商業街であり、2002年2月、改修が終わり、歩行者専用道として今日に至っています。2019年10月19日(土)午前、春熙路に出てみました。そこで、秋週末の春熙路の様子をお見せします。

写真1は、春熙路西段の西端から撮ったものです。後ろ右側が2007年5月に開業した成都伊勢丹です。西段は地下鉄春熙路站に隣接しているからか、最も人出が多かったです。

写真2は、成都伊勢丹を背景に小姐を撮ったものです。

写真3は、イトーヨーカドー海外支店第1号の春熙店(1997年開業)の「物産節」と名付けた露店です。

写真4は、露店で買い求めたものを食している風景です。

写真5は、小姐を撮ったものですが、右側の子の服装は唐代を模したもので、初めて見ました。

写真6は、春熙路北段の小姐です。

写真7は、春熙路北段と蜀都大道の交差点上に架かる歩道橋から撮ったものです。右側には西洋人の若い男女の像群があり、中国人記念撮影の場ともなっています。

写真8は、春熙路北段の小姐です。

写真9は、中山広場での小姐です。メード喫茶風の服装です。

写真10は、春熙路南段のベンチでの小姐です。皆スマホを持っています。

最後の写真11は、春熙路南段と東大街の交差点上に架かる歩道橋から、中山広場へと南段を俯瞰したものです。

(2019.11.02)

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再訪大慈寺―成都雑感〔147〕―

2019年10月30日 16時52分07秒 | 観光(成都)

2019年10月18日(金)午後、大慈寺(古大聖慈寺)を参観しました。2013年3月以来です。当時は寺周辺を再開発中(太古里)で、寺自体も修復中でした。そこで、改めて本寺を紹介します。本寺は3・4世紀創建と伝え、1600年余の歴史を持つとされています。歴史的には唐代の三蔵玄奘(602~64)が武徳5(622)年春に受戒したことで知られています。そして、南宋の代、涪州人(重慶市涪陵区、旧涪江郡蘭溪邑)の蘭渓道隆(1213~78)が13歳にて本寺で出家しました。道隆はその後、寛元4(1246)年に日本に渡り、建長5(1253)年、時の執権北条時頼の創建した鎌倉の建長寺の開山となり、日本に純禅を伝来した僧として名を残します。このように、歴史に名を残した高僧が若くして修行したのが本寺であり、日本とも関係があるのです。本寺は唐宋代に栄え、その後、明代の宣德10改修されて今日に至っています。そして、2004年4月、正式に対外開放となりました。

本寺の所在地は成都市大慈寺路(蜀都大道)23号で、拝観時間は8時~20時で、拝観は無料です。公共交通は、地下鉄2・3号線春熙路站下車です。E2出口(3号線南側)から東大街下東大街段に出て、東に行き、交差点を越して、南糠市街へと左折して北に行けば本寺です。約700mです。他に本寺北に接した大慈寺路の大慈寺路站か蜀都大道紅星路口站に停まる市内バス3路(九里堤公文站~城東客運站)・4路(茶店子公文站~成都東客站西広場站)・58路(万家湾公文站~五桂橋公文站)・98路(人民中路二段站~舜和園站)等があります。

後山門(北門)から入りました。写真1は、蔵経楼です。2階が経蔵で、1階は法堂として仏事・行事に使われています。

法堂では女性達の読経が行なわれていました。写真2が、それです。

写真3は、祖師堂です。

写真4は、大雄宝殿です。

写真5は、本尊の釈迦牟尼仏像です。また、背面壁外には阿弥陀仏像が捧持されています。

写真6は、法会の様で、釈迦牟尼仏像前の導師が読経をしています。この左右には女性の信者達が同じく読経しています。

写真7は、観音堂です。

写真8は、観音菩薩像です。祈りを捧げているところを撮りました。また、背面壁外には韋駄菩薩(韋駄天)が捧持されています。

写真9は、薬師堂です。

最後の写真10は、薬師仏像で、脇侍の左右は日光・月光菩薩像です。

(2019.10.30)

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再訪宝光寺―成都雑感〔164〕―

2019年10月28日 14時31分42秒 | 観光(成都)

2019年10月18日(金)午前、宝光寺を参観しました。2007年7月以来でした。そこで、改めて宝光寺を紹介します。宝光寺は後漢創設と伝えられ、長江四大禅林の名刹です。成都市の北郊19kmの新都区に位置しています。約10haの敷地内に、1塔5殿16院(庭)があります。舎利宝塔、山門殿・天王殿・七仏宝殿・大雄宝殿・蔵経楼です。拝観は夏季が8時から17時20分、冬季が8時から17時までとなっており、拝観料は5元です。

宝光寺は後漢創立と伝えられ、最初「大石寺」と称していました。史書の確実な記載の最初は唐代の開元元(713)年ですから、伝えはともかく、1300年あまりの歴史をもつ古刹です。唐末の黄巣の乱で、四川に逃れた僖宗が当寺を行宮として滞在し、この関係で寺と舎利塔を建て直し、中和元(881)年、寺名も「宝光寺」と改められました。宋代に最盛を迎えましたが、明滅亡の崇禎年間(1640~4年)の兵火で全山焼失し土台のみが残りました。清代の康煕9(1670)年に再建されて、その後、増改築がなされ現在の姿に到っています。

成都市内からの公共交通は、地下鉄3号線鐘楼站下車後、金光路に上がり、西に行った地鉄鐘楼站でX05・X41・X44・X45路に乗車し、5停留所目の宝光寺站で下車し、北に広がる宝光街を進めば門前に到ります。徒歩も含めて所要時間は約20分です。

写真1は、山門殿です。門の左側が入寺口です。現存の山門殿は清代後期の道光15(1835)年に建てられたもので、門内の両側左右に1体の密跡金剛力士像を捧持しています。

写真2は、天王殿です。天王殿は同治2(1863)年に再建され、また、殿裏は永楽11(1413)年に創建され同治2(1863)年に再建された尊勝幢で、このことから天王殿は尊勝宝殿とも称されます。

写真3は、天王殿屋根中央の飾です。


写真4は、天王殿中央に捧持されている弥勒仏像です。殿内の左右には四天王像を捧持しています。

写真5は、正面から撮った13層の舎利宝塔です。正面に「光明藏」の額を掲げた、高30mの煉瓦造の宝塔は、唐代の中和年間(881~5)創建で、四面に仏像が彫られていますが、時代を経て今ではご覧のように少々傾いでいます。現存する寺内建築物の最古参が宝塔で、寺のシンボルともいえるものです。

写真6は、裏面から撮った舎利宝塔です。

写真7は、七仏宝殿です。咸豊11(1861)年に再建された七仏宝殿には釈迦牟尼仏像とそれ以前の六仏像が安坐しており、殿裏には韋駄天菩薩像が捧持されています。

写真8は、中央が釈迦牟尼仏像です。

写真9は、大雄宝殿です。咸豊9(1859)年に再建された大雄宝殿は約700㎡で36本の石柱に支えられた建物で、殿内中央に釈迦無尼仏像が安坐しております。「南無釋迦牟尼佛」額が掲げられています。

写真10は、一番奥にある蔵経楼です。蔵経楼は高30m・延面積約1000㎡で、道光28(1848)年の再建です。楼2階が蔵で大蔵経336冊以下が納められています。楼1階は法堂となっています。楼の左右には東・西方丈が接しています。西方丈北側の西花園にチベット仏教ゲルク派の創始者ツォンカパ(1357~1419)を捧持した密壇があり、四川の仏教界とチベット仏教の関係が深いことが察せられます。

さて、楼前の右側に羅漢堂への通路があります。写真11は、その途上にある藥師殿の薬師仏像です。左右は日光・月光菩薩像です。

写真12は、左が羅漢堂入口で、奥の建物が羅漢堂です。羅漢堂は咸豊元(1851)年創建で、ここには577体(仏菩薩20体・祖師59体・羅漢518体)の像が捧持されています。いろいろな表情をした羅漢像を目にすることが出来ます。この羅漢像は清代後期の作で、これだけの羅漢像を一同に見ることは他では望めず、圧巻といえるもので、寺内の目玉的存在といえます。

写真13は、中央奥に捧持されている千手観音像で、両側には羅漢像が並んでいます。

写真14は、第187の大力尊者です。

写真15は、第98の法王尊者です。以上の2つの羅漢像は堂の右側に位置します。


写真16は、羅漢堂から舎利宝塔へと通じる壁道です。武侯祠や徒歩草堂に見る赤色の壁ですが、こちらの方が渋い色をしています。

写真17は、同じく壁道で、出口の門の後ろに舎利宝塔が見えます。

最後の写真18は、舎利宝塔から西に入った高僧塔林、すなわち本寺の高僧の墓所です。

なお、フォトアルバム「成都・宝光寺」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng6QCAn3HivfQAQtN0Q?e=vGFNtYです。

(2019.10.28)

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再訪宝墩古城遺址―成都雑感〔162〕―

2018年05月08日 00時37分36秒 | 観光(成都)

2018年4月15日〔日〕、成都市新津県龍馬郷宝墩村の宝墩古城遺址に行ってきました。2008年4月13日以来です。この訪問記は「龍馬古城宝墩遺跡―成都雑感〔59〕―」(2008年4月14日付)です。成都市の西南38kmに位置する新津県城の北西約7kmの龍馬郷宝墩村に、宝墩古城遺跡はあります。交通は、成都旅遊集散中心站(新南門)発から高速経由の新都行バス(13元)が約1時間弱で新都客運中心站に着きます(新南門以外にも、城北客運中心站・金沙客運站・石羊場中心站からも新都行バスがあります)。ここからは近くに行くバスはなく、タクシーで約25元です。

宝墩古城遺址は宝墩文化(BC2500~1700年、龍山文化)の命名遺跡です。宝墩古城はBC2550年に建設され、BC2300年頃に廃棄されたと考えられています。1996年、成都市文物考古工作隊・四川聯合大学(現四川大学)考古教研室・早稲田大学長江流域文化調査隊の日中合同の発掘調査が行われました。これにより、北東から南西方向に1100m・南東から北西方向に600mの長方形の城壁に囲まれた遺跡であり、最大高8mの城壁を持ち、面積が66万㎡に達する大きな遺跡であることが分かりました。その後の調査で、さらに外城壁があり、約268万㎡の規模を有し、古蜀国の王城と考えられています。2001年6月25日に全国重点文物保護単位に指定されました。

 

写真1は、「龍馬古城遺址」石碑の建っているところで、石碑には保護カバー被せられています。そして、ご覧のようにベンチもあり整備されています。以前は石碑の奥、東城壁上には民家がありました。整備・保護の関係で移転したのでしょう。

写真2は、城壁内側に設置された遊歩道から東城壁を撮ったものです。手前の道を入ると、以前に城壁を発掘調査したところとなります。奥右は南城壁です。

写真3は、東城壁上から発掘現場を見たものです。ここは城壁が現存していません。奥は城壁東南角です。

写真4は、南城壁です。写真で分かりませんが、外側の民家もなくなっています。

写真5は、右の南城壁、奥に東城壁を見たものです。

写真6は、用水路越しに祭壇遺址を見たものです。残念ながら、ここから直接行ける徒歩道もなく、行けませんでした。

写真7は、城内の発掘トレンチです、奥の用水路付近で発掘を行なっていました。

最後の写真8は、先の石碑のあるところの東側にある宝墩遺址案内板です。以上、遺址は以前と異なり整備・保護されています。また、案内板の北には発掘遺物展示館が建てられていますが、現時点では展示はまだです。

なお、フォトアルバム「成都・宝墩遺址」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngtQdov6Yo7v38CG3RQです。

(2018.05.08)

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再訪永陵博物館―成都雑感〔161〕―

2018年05月06日 09時11分59秒 | 観光(成都)

2018年4月14日(土)、永陵博物館(成都市青羊区永陵路10号)を見学しました。2009年12月4日以来です。この時の記事は「成都永陵博物館(永陵公園)―成都雑感〔88〕―」(2009年12月5日付)としてアップしています。本博物館は唐滅亡後の五代十国時代の前蜀国(大蜀)開祖、王建(847~918年)の陵墓永陵を博物館としたもので、開館時間は8時半~18時、入場料20元です。地下鉄2号線通恵門站・4号線寛窄巷子站下車後、西安路北上(以上約1km)か市内バス槐樹街西站(30・48・54・341路)・永陵路口站(42・126・127路)下車です。

永陵は円形で高15m、直径80m余です。地宮は前・中・後室の3室からなり全長23.4mです。1942年の発掘で王建墓と確定しました。1961年3月4日、第1回全国重点文物保護単位に指定されました。また50年代から2006年までに何度かの修復・復原がなされました。2009年には陵を含む園林区を大改修して、面目を一新しました。2015年には園林区の北に総合館を開設して現在に至っています。同時に地宮の道を保護用のガラスで覆いました。

写真1は、神道から見た永陵正面です。神道の左右は廂房で、文臣・武将・獬獅・鞍馬石像(復原)が立っています。

写真2は、墓道から前室、奥に中室を見たものです。

写真3は、中室で、青白大理石の王建石棺床です。奥が後室です。

写真4は、王建石棺床西壁に彫られている二十四楽伎(南璧4・東壁10・西壁10)の吹葉伎と弾堅箜篌伎です。

写真5は、中室奥から王建石棺床を撮ったものです。

写真6は、後室中央に置かれている王建坐像(高96cm)です。

写真7は、王建石棺床東壁の二十四楽伎の撃羯鼓伎です。頭が見えているのが12座の武士力士石像です。

写真8は、神武殿から見た永陵です。

写真9は永陵背面です。

写真10は、永陵前右側面(東)です。

神武殿内は「千裁帝陵・芙城記憶」と題する展示で、永陵を解説しています。写真11は、永陵のレプリカです。

永陵の北口の北に対面して2階建ての総合館があります。現在のところ地下1階が展示スペースとなっています。写真12は、王建皇后周氏坐像です。1990年に永陵西南数百mで発掘された墓葬から発見されました。

写真13は、前蜀の永平五年(915)の銘のある陀羅尼経幢です。

写真14は、五代八卦銅鏡です。

写真15は、石材等です。上は永陵地宮図です。

最後の写真16は、各種の陶俑です。

なお、フォトアルバム「成都・永陵博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngtQcIbXDv80p-zhNzgです、また、『成都永陵博物館-王建墓』公式サイトはhttp://www.cdylbwg.org/index.aspxです。

(2018.05.6)

 

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魚鳬古城遺址―成都雑感〔160〕―

2018年05月02日 09時46分48秒 | 観光(成都)

2018年4月12日(木)、成都市温江区万春鎮報恩村・魚鳧村の魚鳧古城遺址に行ってきました。本遺跡は四川省の古代文化(古蜀文化)の最古文化である宝墩文化(BC2500~1700年、龍山文化)に属する遺跡です。古蜀文化は続いて三星堆文化(BC1700~1200年、夏晩期~商後期)、金沙・十二橋文化(BC1200~500年、商後期~春秋後期)、晩期蜀文化(BC500~316年、春秋晩期~戦国期)と、四つに区分されます。そして、宝墩文化は「蚕叢」「柏灌」、三星堆文化は「魚鳧」、金沙・十二橋文化は「杜于=望帝」、晩期蜀文化は「鼈霊=叢帝」という伝説の蜀帝王の時代に相当すると考えられています。BC316年、この古蜀王国は北方の秦恵文王の派遣した司馬緒によって滅亡させられます。

さて、宝墩文化は都江堰扇状地に発展しました、龍馬古城宝墩遺跡以下、6か所かの古城遺跡が残されて、この一つが魚鳧古城遺址です。他にも郫県古城・紫竹古城・芒城・下芒城があります。魚鳧古城は約40万㎡と龍馬古城に次ぐ規模を有します。1996・99年に発掘調査がなされて、城壁・住居址・墓葬が確認され、石器・陶器が出土しました。2001年に全国文物保護単位に指定されました。成都市内からの交通は、地下鉄4号線の南黒大道站下車後、D出口から直進(西)して水面黒大道との交差点で右折して大道には入り、W25路の光華路口站で乗車して13停留所目の報恩村站で下車し、道(郫温路)を戻り(南)約100mで道路東側に「羅家院子休閑庄」の看板のある道を入り道なりに約150mです。郫温路には温江区の設置した「魚鳧村遺址」の説明板があります。

写真1は、城壁遺址上の全国文物保護単位碑のところで撮ったものです。ご覧のように、宝墩文化関係の古城は「成都平原史前城址」で統一されて、魚鳧古城遺址の正式名称は「魚鳧村遺址」です。

写真2は、碑の裏側に回り、古城内から城壁遺址を撮ったものです。ここは西城壁遺址に当たり、さらに長く残されていますが、あいにくの雨模様のため、さらに確かめることはしませんでした。

魚鳧古城を離れて、発掘遺物を展示している温江区博物館(四川省成都市温江区文廟街6号)に移動しました。本博物館は文廟の大成殿(1984年の火災で2003年に再建)にあります。地下鉄4号線南黒大道站下車後、A出口からW29路の地鉄南黒大道站で乗車し3停留所目の文廟広場站で下車し、文廟路を行ったところです。写真3は、魚鳧古城遺址出土の陶器片です。

最後の写真4は、石斧等の石器です。壁には「魚鳧村遺址地理位置図」等があります。

(2018.05.02)

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再訪望叢祠―成都雑感〔160〕―

2017年11月22日 15時41分17秒 | 観光(成都)

2017年11月3日(土)、久しぶりに望叢祠(成都市郫都区望叢西路5号)を訪れました。2007年9月27日以来です。本祠は古蜀王国の伝説上の王、望帝・叢帝両帝の陵のあるところです。両帝に関しては「望叢祠―成都雑感〔50〕―」(2007年10月28日付)をご覧ください。本祠は成都市西北郊外22㎞にある成都市郫都区城にあります。入場は無料で、開館時間は8時~18時です。市内からの公共交通は、地下鉄2号線終点の犀浦站下車、犀浦快鉄站でP17(9番目停留所)・720路(16番目)乗車し終点の郫都区客運中心站(2元)下車、同站でP08路に乗継ぎ望叢路站(2つ目・2元)下車です。犀浦站からは約1時間強かかります。

大門を入ると、正面に「望叢祠」壁が目に入ります。この奥にあるのが望帝叢帝紀念館で、写真1は、この正面からのものです。1993年に改築されたコンクリート製の建物です。

写真2は、館内に祀ってある陵の塑像で、左が望帝、右が叢帝です。説明がないため何時のものか分かりません。堂内の壁には両帝を中心に古蜀王国の説明が掲示されています。

紀念堂の後面に出て、橋(左右は池)を渡り直進し、左手に階段を上ると、望帝陵正面に出ます。写真3は、「古望帝之陵」碑(高3.48m・幅0.58m・厚0.14m、1917年建立・青砂岩)が立てられた望帝陵(高15m・長径131.6m・短径37m・周長250m、軸は南東・北西)の南東正面からのものです。

写真4は、望叢陵の周りを右から巡って、左側中途から撮ったものです。

写真5は、正面から下ったところから撮ったものです。望帝陵は明らかに自然の丘を陵として伝承されてきたものです。

望帝陵から下って直進し、道を左(北)へ池を越えていくと、写真6の、叢帝陵(高10m・長径約41m・短径約20m・周長約100m)の正面に出ます。やはり正面は南東です。「古叢帝之陵」碑は望帝陵のそれと同じです。

写真7は、叢帝陵の裏に回って撮ったものです。

さらに紀念館の方へと戻ると、写真8の、聴鵑楼に出ます。本楼は「望叢大華玉器博物館」となっており、古代から現代までの中国各地の玉器展示となっています。

手前の現代等の玉器展示の奥に古代玉器の展示があります。写真9は、和田白玉龍形佩です。殷代のもので、長6cm・重さ30gです。

写真10は、五彩沁玉壁です。古蜀文明のもので、外径14.7cm・内径3.6cm・重さ500.6gです。

写真11は、青玉「止」字銘文戈です。周代のもので、長21cm・幅8.5cm・重さ295gです。

写真12は、墨玉篏緑松石雙耳罐です。古羌文化のもので、高13cm・直径20cm・重さ230.5gです。

写真13は、九節神面弦紋玉琮です。良渚文明のものです。高37cm・方9.5cm・重さ495.5gです。

最後の写真14は、紀念館の南北に広がる北側の池の荷風亭上から紀念館を見たものです。左手の藕香謝上では機構をしているグループが見えます。なお、ここにあった茶館は現在では営業を停止しているようです。

なお、フォト・アルバム「成都(郫都区)・再訪望叢祠」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngs1z8uFmBAAhfU5MYAです。

(2017.11.22)

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続・成都博物館―成都雑感〔159〕―

2017年11月20日 09時58分32秒 | 観光(成都)

2017年11月1日(水)、昨年は時間の関係で参観できなかった5階の「中国皮影木偶展」を見るために、再度成都博物館に行ってきました。前回のは「成都博物館―成都雑感〔157〕―」(2016年11月16日付)です。今回は「中国皮影木偶展」を紹介します。

第一展庁「中国皮影博物館」で、基本的展示は中国各地の皮影(影絵)です。写真1は、五鋒会/辞父(清代・河北)です。

写真2は、青海・甘粛・寧夏のです。

写真3は、百蛇伝/断橋(清代・四川)です。他、各省の皮影が展示されています。なお、皮影の材料の基本は牛皮です。

写真4は、皮影の製作器具、すなわち刀等です。

次いで、第二展庁「影舞万象偶戯大千」、すなわち木偶戯(人形芝居)の展示です。写真5は、演奏楽器の鼓(現代)・三弦(近現代)です。

写真6は、大饠・板鼓・木頭・碗碗(近現代)です。

写真7は、提繊木偶戯(操り人形芝居)です。

写真8は、その木偶(現代・福建)です。

写真9は、同じく木偶です。

写真10は、木偶頭です。


写真11は、木偶の制作過程を示したものです。


写真12は、木偶戯「大名府」(現代・福建)です。

写真13は、木偶戯「西遊記」等です。

最後の写真14は、天府広場から成都博物館を見たものです。右上端には白い毛沢東像を写し込んでいます。また、チベット族のラマ僧が右手にスマートフォンを持っていることに今の中国が見えています。そして、「蜀犬陽に吠ゆ」と称されたように、曇天が普通の成都市が、ご覧のように、珍しくも晴天でした。

なお、フォト・アルバム「成都・成都博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsdC1U1j874TnKBCfwです。また、成都博物館の公式サイトはhttp://www.cdmuseum.com/です。

(2017.11.20)

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成都博物館―成都雑感〔157〕―

2016年11月16日 16時25分47秒 | 観光(成都)

 

2016年10月20日(木)午前、本年6月11日に開館した成都博物館に行きました。所在地は青羊区小河街1号、すなわち天府広場西側です。開館時間は9時~17時(月曜休館日)で、入場無料です。入口左側の参観票受取所で旅券提示の上で、参観票を受取ります(自動参観票発行機は旅券読み取り非対応のため利用不可)。バック類などは預けます。本博物館は、成都市出土品を基本として、1階が臨時展示、2階が古代篇:先秦~南北朝、3階が古代篇:隋~清、4階が近世篇と民俗篇、5階が皮影庁と木偶庁、6階が観景長廊、となっています。交通アクセスは地下鉄1・2号線天府広場站(駅)下車J出口(西)から博物館東門へです。バスは西御河站(南門西)下車が13・30・43・47・64・78路、天府広場東站が16・45・53・61・64路です。

 

2階の最初の展示は「九天開出―成都―先秦時期的成都」です。古蜀文化の最古、宝墩文化(BC2500~1700年「蚕叢」「柏灌」、龍山文化)からです。陶瓶等の陶器や石矛等の石器が展示されています。次いで、三星堆文化(BC1700~1200年「魚鳧」、夏晩期~商後期)、です。ここでは玉壁等の玉器、銅人頭像等の銅器が展示されています。そして、金沙・十二橋文化(BC1200~500年「杜于=望帝」、商後期~春秋後期)、と続きます。ここでは陶器、石器、玉壁等の玉器、銅龍形紐蓋等の銅器が展示されています。写真1は、その獣頭双耳銅罍です。

 

 

さらに、晩期蜀文化(BC500~316年「鼈霊=叢帝(開明)」、春秋晩期~戦国期)と続きます。写真2は、成都市商業街船棺葬遺跡(戦国期)出土の船棺です。

 

 

次の展示は「西蜀―秦漢至南北朝時期的成都」です。まずは前漢・後漢期です。石辟邪座等の石像からはじまり、陶台等の陶器、「蜀都工官」銅盆等の銅器、鉄工具等の鉄器と続きます。写真3は、陶俳優俑(後漢)です。

 

 

展示は三国・南北朝期となります。陶器・瓦・石像・仏像・等の各種の出土品が展示されています。写真4は、陶俑・金戒指(成漢)です。金戒指を各種の陶俑が囲んでいます。

 

 

3階となると、最初は「喧然名都会―隋唐五代宋元時期的成都」です。まず、隋・唐期です。蜀錦・唐三彩・仏像・彩陶俑等が展示されています。写真5は、青銅千手観音坐像(唐)です。

 

 

宋・元期では茶具・磁器・銀器・貨幣等が展示されています。写真6は、定窯白瓷孩児枕(北宋)です。

 

 

次は「丹楼西晩輝―明清時期的成都」です。陶磁器・金銀器・貨幣等が展示されています。写真7は、彩釉陶将軍俑(明)です。

 

 

4階に上がると、まず「近世篇」です。すなわち、中華民国から「成都解放」までです。成都の近代化・解放に力を尽くした成都人関係展示品を主に、写真やジオラマ展示となっています。次いで、「民俗篇」です。ここは民国時代の風俗を主としてジオラマ展示をしています。最後の写真8は、白酒の名産地として知られる四川人の宴会の様子をジオラマにした壩壩宴です。なお、時間の関係で5階の「皮影庁」(影絵)と「木偶庁」は参観を省略したため、紹介はありません。

 

 

フォトアルバム「成都・成都博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsdC1U1j874TnKBCfwです。また、「成都博物館」サイトはhttp://www.cdmuseum.com/です。

 

(2016.11.16)

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都江堰―成都雑感〔157〕―

2016年07月15日 21時12分12秒 | 観光(成都)

クラブツーリズム主催「〈全日空利用〉九寨溝・黄龍とゾルゲ・達古(タッコ)氷河 北四川省周遊8日間」(2016年7月6日〔水〕~13日〔水〕)に参加して、中国に行ってきました。本ツァーの基本旅程は、

6日(水)ANA直行便成田発成都着 成都泊

7日(木)朝成都発 午前都江堰観光 夕黒水着 黒水泊

8日(金)達古氷河風景区観光 黒水泊

9日(土)朝黒水発 午前黄河九曲第一湾観光 午後花湖観光 若爾蓋(ゾルゲ)泊

10日(日)朝若爾蓋発 午後黄龍観光 九寨溝泊

11日(月)九寨溝観光 九寨溝泊

12日(火)朝九寨溝発 午前松潘城観光 成都泊

13日(水)ANA直行便成都発成田着

です。

最初の観光地は都江堰です。まずここから紹介します。

戦国時代後期に蜀を併呑した秦の、蜀郡太守李冰が紀元前256年に建設を開始し、息子の李二郎が完成させたとされるのが潅漑施設の都江堰です。堰で岷江から分水して、成都平原に用水を導き、この地を豊かな土地にして、蜀は「天府の国」と呼ばれるようになりました。しかも、この潅漑施設は補修を続け、基本的に原構造のまま現在も潅漑施設として運用・利用されて、四川省の農業生産を支えています。すなわち、2千年以上も前に建設された潅漑施設が現役で利用されている世界でも希有な例で、このため、2000年に道教の聖地の青城山と共に「青城山・都江堰」として世界文化遺産になりました。

二王廟の上、秦堰楼入口から入りました。写真1は、秦堰楼から俯瞰したものです。中央が岷江外江(本流=金馬河)の堰堤(ダム)です。これは1974年に完成したものです。この右に突き出ているのが分水堤の魚嘴で、ここで岷江の流れを掘削した内江(灌江)と外江に分離します。魚嘴から左に人口の中州となっています。左に見える橋は安瀾橋で吊橋です。

写真2は、秦堰楼から下流を俯瞰したものです。中央奥の左への流路口が宝瓶口です。ここから潅漑用水として成都平原に分流して平野を潤うします。この右側、中州と対岸の間は写真では見えませんが、内江と外江は繋がっており、外江側に飛沙堰が設けられて、内江の砂を外江に排出する役目を果たすと同時に、水流調整の役割も果たし、増水期には溢れた水を岷江本流(外江)に戻します。中央に見える建物は二王廟と門です。

写真3は、二王廟です。殿内に二郎神像(李二郎)が祀られています。なお、都江堰の二王廟以下の建物の大半は2008年5月12日の四川汶川大地震で崩壊しましたが、その基材を可能な限り生かして再建されました。

写真4は、安瀾橋手前に展示してある竹龍・榪槎の復元です。竹龍は竹で編んで内に石を入れて岸を守ります。榪槎は閉水三脚とも呼ばれ、木で三脚台を作って杭で接続し、水に向かう側に竹を入れて、水量調整や制御を行ないます。作成の簡単で、取り外しも容易で、水理施設として利便性がありました。

写真5は、中州側から見た安瀾橋です。左上部の建物は秦堰楼です。

最後の写真6は、魚嘴(分水堤)です。ここで岷江は外江(本流)と内江に分かれます。渇水期には内江6・外江4の割合で、逆に増水期は内江4・外江6の割合で分水されるようになっています。現在はコンクリートで補強しており(以前は竹龍・榪槎を適宜使用)、汶川大地震では特に被害を受けませんでした。

時間の関係で観光は上流部のみでした。なお、フォトアルバム「都江堰」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpEyz9W016jVR3v47Qです。

(2016.07.15)

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再訪金沙遺址(遺跡)博物館―成都雑感〔156〕―

2015年09月24日 14時57分31秒 | 観光(成都)

2015年9月20日(日)、金沙遺址博物館を再訪したので、その時の写真をお見せします。本博物館は2007年4月16日(月)に開館したものです。その際の紹介記事は「金沙遺址(遺跡)博物館オープン―成都雑感〔39〕―」(『歴史と中国』2007年4月19日付)です。

金沙遺跡は、2001年2月8日、住宅開発に伴う下水道工事中に、発見されたものです。中国における21世紀最初の考古学的大発見です。その後の発掘調査により、基本確認部分でも5平方キロに及ぶ大型遺跡です。ここからはすでに金器200余点・青銅器1200余点・玉器2000余点・石器1000余点・漆木器10余点の5000点あまりと、陶器数万点・象牙1トン・動物骨片数千点が発掘されました。これらの調査などにより、ここは、BC1700~1200年(夏晩期~商後期)の三星堆文化の後、BC1200~500年(商後期~春秋)の十二橋文化(現在は十二橋・金沙文化と改称されました)の代表遺跡と解明されたのです。以上により、2006年に中国重点文物保護単位(特別史跡に相当)に指定されました。すなわち、三星堆遺跡と並んで、四川省における古蜀文化(長江文明)を体現する遺跡なのです。いにしえの古蜀王国の跡といえます。この遺跡の中核的なところに博物館が建設され、保護された遺跡と出土品を眼前にすることが出来るようになったのです。

本博物館は敷地面積30万㎡・延総建築面積3.5万㎡で、遺迹館・陳列館・文物保護中心(センター)の主要な三つの建物からなっています。遺迹館は、大型祭祀遺構上にドームを覆って、保護・見学出来るようにした施設です。陳列館は、ここから出土した遺物を中心に、展示した施設で、見学の中心といえるものです。文物保護中心は、研究施設であるとともに、ここで実演・体験などを行う施設です。以上3館の見学はその順にしたがって行うのがいいでしょう。まずこの目で遺跡自体を確かめ、この出土品をじっくり鑑賞し、最後に往事を体験するのです。

本博物館の開館時間は8~18時で、入場料は80元です。成都中心の天府広場から西北西に約5㎞の、二環路と三環路の中間の青羊大道西側に位置します。見学の便のいい東大門(ここから西に約100mが遺迹館)の最寄りバス停は金沙遺址東門站(旧青羊大道北站)で、ここには数路線(5・84・100・111・123・147・805・1043路)のバスが停まりますが、利便性のあるのは5路(十陵公文站~金沙遺址路)です。本路線は人民公園・通惠門・中医附院站でそれぞれ地下鉄2号線と接続しています。それに東大門に東面している同盛路を約100mあまり行った青羊大道口站(82・83・163路)に停まる82路(成仁公文站~茶店子公文站)は、杜甫草堂・青羊宮・武侯祠・新南門站を経由しますから、市内観光には利便性のある路線です。なお、現在建設中の環状線の地下鉄7号線が開通(2017年末)すると、東大門前に新駅が出来ます。

以下、展示物の主なものをお見せします。機材はペンタックスK-3、ペンタックスDA17-70F4です。まず一展庁(第1展示室)「遠古家園」からです。入ると往事の古蜀人の生活場面のパノラマが展示されています。そして、展示品は動物骨格(馬・豚・犬・鹿・虎・猪・象・魚など)・陶片などです。写真1は、鱘魚骨・魚鰓蓋骨です。

次いで二展庁(第2展示室)「王国剪影」です。入ると左の壁側に往事の建物が復元された居住パノラマがあります。その先に、生活用具の出土品が展示されており、逆に右壁側には大型建築遺跡の縮小模型と出土建築木材が展示されています。さらに進むと、左側に冶鋳として金器・銅器の出土品が、次いで制玉として玉器・玉石が展示されています。写真2は、ここの「刻劃同心円円紋的玉璋」で、直径16.9cm・孔径6.2cmで、7重の同心円の刻みがあります。

写真3は、その隣の「掏雕玉環飾」です。

制玉の反対側の右側には、早期・中期・晩期と分けて、大量の陶器が展示されています。この展示室の最後が墓葬です。単人墓や複人墓がここにそのまま切り取られて展示してあります。

エスカレーターで1階に下ると、三展庁(第3展示室)「天地不絶」です。入ってすぐ目に入るのが単独で展示されている写真4の「青銅立人像」です。高19.6cm(人像部14.6cm)で、三星堆遺跡出土の「青銅大人像」と相似しており、この影響を受けたものと考えられます。本遺跡出土の青銅器を代表する逸品です。

そして進むと、象牙群が保護液の入った水槽内に2mはあるのかという巨大なのを含み展示されています。次いで、中央に石器類、左に金・銅器・石器などの雑類、右に玉器類が展示されています。石器類には中国最古の打楽器といわれる石磬などが含まれています。雑類には、喇叭形金器・三角形金器・跪坐石人像などの逸品が含まれております。写真5は、「石蛇」です。長17cm、高5.4cmです。

写真6は、「銅虎」です。長26.5cm、幅6.2cmです。

写真7は、「蛇形金器」です。

玉器類には玉璋・玉などの各種の玉器ごとにまとめて展示されています。暗い中に照明に浮かぶ多数の玉器は美しいものがあります。石器類の奧には遺跡組として祭祀品類が展示されています。順路は石器類・玉器類・遺跡組・雑類となり出口となります。

最後が四展庁(第4展示室)「千年絶唱」です。陳列館のハイライトです。すなわち本遺跡出土品の粋が集められた展示室というわけです。展示室の中央に、本遺跡出土品の白眉、太陽神鳥金箔が鎮座しており、その四囲に4か所に分けて出土品を展示しています。右手前のブースには、緑松石珠・玉環(2個)・有領玉璧(2枚)・玉鑿(2本)・玉鉞・・陽刻昆虫紋玉牌・玉海貝形佩飾(3個)が、右奧のブースには、帯柄有領銅璧・人形銅器(2体)・銅面具・鳥首魚紋金帯・鏤空喇叭形金器(2個)が、左奧のブースには、石虎・跪坐石人像・四節玉・十節玉・獣面紋玉鉞・玉鉞が、左手前のブースには、玉璋・肩扛象牙人形紋玉璋・玉圭・玉戈(3本)が、それぞれ右から順に展示されています。

写真8は、「銅人像」です。高4.5cmの銅人頭像は帯柄有領銅璧の上にあります。

 

写真9は、「鳥首魚紋金帯」です。上が長21.6cm・幅2.03cm・厚0.22cm、下が長21.9cm・幅2.03cm・厚0.22cmで、鳥のように嘴の長い左右対称の鳥首魚紋の線刻が表面にあります。なお、本ブースでは開館当時には金冠帯が展示されていました(隣の銅面具は金面具でした)。このように、本展示室の展示品は一部入れ替えがあります。

写真10は、下の「鏤空喇叭形金器」です。直径11.6cm・高4.8cm・厚0.22cm・重量51gです。

写真11は、「石虎」です。高19.8cm・長28.4cm・幅8.4cmです。天然の蛇紋石化橄欖岩を使用しています。

写真12は、「十節玉」です。高22.2cm・幅6.9cm・孔径5.1~5.6cmの青玉です。各角には唇が設けられてこの少し上部左右に円形の眼が刻されています。すなわち角は人面を模しています。右にこれを図示しています。

写真13は、「獣面紋玉鉞」です。長22.4cm・幅11.4cm・厚0.21~1.71cmです。上部に獣面紋が八字形で刻されています。右にこれを図示しています。

最後の写真14は、展示室の中央にある「太陽神鳥金箔」です。2001年2月25日に発掘され、外径12.5cm・内径5.29cm・厚さ0.02cm・重量20gです。現在、成都市の市微になっている本遺跡のシンボル的出土品です。

なお、古蜀文化の代表遺跡である三星堆遺跡に関しては、「三星堆博物館―四川雑感〔11〕―」(『歴史と中国』2009年12月30日付)を御覧ください。また、フォトアルバム「成都・再訪金沙遺址(遺跡)博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkjaAnB_G__8WFGxgです。

(2015.09.24)

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2014年夏の春熙路―成都雑感〔155〕―

2014年06月20日 21時51分22秒 | 観光(成都)

中山広場を中心に東西南北に広がる春熙路は成都の中心商業街であり、2002年2月、改修が終わり、面目一新して歩行者専用道として今日に至り、日々賑わいを見せています。そこで、1年ぶりに成都を訪問した機会に、2014年6月18日(水)、夏の春熙路の様子をお見せします。

写真1は、春熙路南段と東大街の交差点上に架かる歩道橋から、南段を俯瞰したものです。中央の赤いパラソルの下にベンチがあり、休息の場となっています。右側のビルが大型商業施設の群光広場です。

写真2は、群光広場の北入口です。地下2階の食品街にこの6月にラーメンの「一風堂」が開店しました(豚骨ラーメン39元)。

写真3は、南段のベンチで休む成都小姐です。後方にも小姐が見えます。

写真4は、春熙路中心の中山広場です。左側の像が辛亥革命の指導者で国父の孫中山(孫文)です。右側に見えるのは警備の武装警察隊隊員2名です。写真ではお分かりにならないかも知れませんが、サブマシンガンで武装しています。

写真5は、北段での清掃車です。電動モーターの駆動です。

写真6は、北段に設置された「結婚写真」所です、中国では結婚に当たって、結婚アルバムを作成するのが普通で、成都市では費用をかけても九寨溝で写真撮影をするのが人気です。もちろん女性が主役です。

写真7は、北段端に建てられている春熙路碑です。廻りは写真のようにいつも花で飾られています。右側の壁にあるのは中華民国時代の春熙路の様の彫刻です。

写真8は、北段を歩く成都小姐です。

 

写真9は、東段に位置するイトーヨーカドー春熙店です。中国進出の1号店で、1997年11月に開店しました。その奥が2007年5月に開店した成都伊勢丹です。伊勢丹の7階レストラン街には「とんかつ和幸」と「カプリチョーザ」が入っています。また、両店地下の食品街は四川産調味料などのお土産品購入の場としていいでしょう。

最後の写真10は、東段から紅星路三段を挿んで、右側に見えるビルが国際金融中心(IFS)で、壁にパンダが掛かっており目立ちます。オフィス・商業施設の複合ビルです。「ユニクロ」が入っており、また地下1階に「一風堂」が開店しました。なお、「ユニクロ」は春熙路付近に3店舗が展開しています。左側が成都伊勢丹の入っている利都B座で上階は5星のホテル(成都海悦酒店)となっています。

 

なお、フォトアルバム「成都・2014年夏の春熙路」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkg5UCqf9HdhplW1Aです。

(2014.06.20)

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成都武侯祠伝岳飛書「前出師表」―歴史雑感〔153〕―

2013年07月06日 20時07分43秒 | 観光(成都)

武侯祠(葛孔明廟)には孔明の名文として著名な南宋の武将岳飛書と伝える「出師表」の石刻が掲示されています。ここ成都の武侯祠でも、漢昭烈廟(蜀皇帝劉備)にそれが入口左右の壁に掲げられています。左側が「前出師表」、右側が「後出師表」です。後者はしかるべき史書にも記載がなく、偽作と評価されています。そこで、ここでは「前出師表」を示します。全体は6行分毎に石刻された20枚からなります。ここでは、冒頭の2枚と、岳飛名のある最後の1枚を写真で示します。そして、その後に石刻全文と書き下し文を示します。

『三国志』所載と少し異なる石刻の全文です。

①  前出師表

 臣亮言先帝創」業未半而中道」崩殂今天下三分」益州疲弊此誠

②危急存亡之秋」也然侍衛之臣」不懈于於内忠志之」士忘身於外」者蓋追先帝」之殊遇欲報之

③於陛下也誠宜開張」聖聴以光先帝」遺恢宏士」之氣不宜妄自」菲薄引喩失」義以塞忠諫

④之路也宮中」府中倶爲一」軆陟罰臧否」不宜異同若有」作姦犯科及」為忠善者宜付

⑤有司論其賞」以昭陛下平明」之治不宜偏私」使内外異法也」侍中侍郎郭

⑥攸之費褘董」允ホ此皆良實志」虑忠純是以先」帝簡抜以遺」陛下愚以爲宮中

⑦之事々無大」小悉以咨之然」後施行必能」裨補闕漏有」所廣益将軍向

⑧寵性行淑均」曉暢軍事試」用於昔日先帝称」之曰能是以衆」議擧寵以為」督愚以為営中

⑨之事事無大小」悉以咨之必能使」行陣和穆」優劣得所也」親賢臣遠小人此先

⑩漢之所以興隆」也親小人遠賢臣」此後漢之所以頽」敗也先帝在時毎」与臣論此事」未嘗不嘆息痛

⑪恨於桓霊也侍中」尚書長史參軍」此悉貞亮死節」之臣也願陛下親之」信之則漢」室之可計日

⑫而待也臣本布」衣躬耕南陽荀」全性命於亂世」不求聞達於諸」侯先帝不以臣卑」鄙猥自枉屈

⑬三顧臣於草盧」之中諮臣以當世」之事由是感」激遂許先帝」以馳驅後値傾」覆受任於敗軍

⑭之際奉命於危」難之間尓来」廾有一年矣先」帝知臣謹慎故」臨終寄臣以大」事也受命以

⑮来夙夜憂虑恐」付託不効以傷先」帝之明故五」月渡瀘深入不毛」今南方已定甲」兵已足當奨帥三

⑯軍北定中原庶」掲弩鈍攘除姦」凶興復漢室還」於舊此」臣所以報先帝而忠陛」下之職分也至于於

⑰斟酌損益進尽」忠言則攸之褘允之」任也願陛下託臣以」討賊興復之効不効」則治臣之罪以」告先帝之

⑱霊若無興徳」之言則責攸之」褘允ホ之咎」以彰其慢」陛下亦宜自謀」以諮諏善道察

⑲納雅言深追」先帝遺」詔臣不勝」受恩感激」今當遠離

⑳臨表涕泣」不知所云

   岳飛

〔書き下し文〕

   前出師表

臣亮言わく。先帝創業いまだ半ばならずして中道にして崩殂す。今天下三分し、益州疲弊し、これ誠に来危急存亡の秋なり。しからば侍衛の臣内に懈らず、忠志の士は身を外に忘るるは、蓋し先帝の殊遇を追うて、これを陛下に報いんと欲すればなり。誠に宜しく聖聴を開張するに、光る先帝の遺徳を以てすべく、志士の気を恢弘し、宜しく妄りに菲薄に自りて、喩えを引きて義を失うて、以て忠諫の路を塞ぐべからざるなり。宮中・府中は俱に一体となり、陟罰臧否、宜しく異同あるべからず。若し姦を作し科を犯し忠善を為すに及びては、宜しく有司に付してその賞を論ずるに、陛下の平明の治を昭らかにするを以てし、宜しく偏私し、内外の異法をなからしむべからず。侍中侍郎の郭攸之﹑費禕﹑董允等は、これ皆な良実にして、志慮忠純にして、これを以て先帝簡抜し以て陛下に遺す。愚は以て宮中の事を為し、事に大小無く、悉くこれに咨るを以て、然る後に施行し、必ず能く闕漏を裨補し、広く益する所有り。将軍の向寵は、性行淑均にし、軍事に暁暢し、試みに昔日に用いるに、先帝これを称して能と曰い、これを以て衆議は寵を挙げ督と為す。愚は以て営中の事を為し、事大小なく、悉くこれに咨るを以て、必ず能く行陣和穆し、優劣の所を得せしむなり。賢臣に親しみ、小人を遠ざくるは、これ先の漢の興隆せし所以なり。小人に親しみ、賢臣を遠ざくるは、これ後漢の傾頽せし所以なり。先帝の在時、毎に臣とこの事を論じ、未だ嘗て歎息して桓霊を痛恨せざることあらざるなり。侍中、尚書、長史、参軍は、これ悉く貞良死節の臣なりて、願わくは陛下これに親しみこれを信じ、則ち漢室の隆なるを、日に計りて待つべきなり。臣はもと布衣にして、南陽に躬耕し、苟くも性命を乱世に全うし、諸侯に聞達せらるるを求めず。先帝は臣を以て卑鄙とせず、猥りに自ら枉屈し、三たび臣を草廬の中に顧みて、臣に諮るに当世の事を以てす。これに由りて感激し、遂に先帝に以て駆馳を許さる。後に傾覆に値い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉り、爾来二十有一年なり。先帝臣の謹慎なるを知り、故に臨終に臣に寄するに大事を以てすなり。命を受けて以来、夙夜に憂歎し、託付して效あらずして、以て先帝の明を傷つくを恐れ、故に五月瀘に渡り、深く不毛に入る。今南方已に定まり、甲兵已に足り、当に奨めて三軍を率い、北に中原を定め、庶く駑鈍を竭し、姦凶を攘い除き、漢室を興復し、旧都に還らんとす。これ臣の先帝に報いて、陛下の職分に忠なる所以なり。損益を斟酌するに至り、進んで忠言を尽す、則ち攸之﹑禕﹑允の任なり。願わくは陛下の臣に託するに討賊興復の效を以てせんことを。效あらざれば、則ち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告げん。若し徳を興すの言無くば、則ち攸之﹑禕﹑允等の咎を責め、以てその慢を彰らかにせん。陛下亦た宜しく自ら謀り、以て善道を諮諏し、雅言を察納し、深く先帝の遺詔を追うべし。臣恩を受けて感激に勝えず。今、遠離に当たり、表を臨みて涕泣し、云う所を知らず。

なお、フォトアルバム「成都・武侯祠伝岳飛書「前出師表」」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkpZgBFS45qrEkuvAです。これに全20枚の石板写真を収載してあります。

(2013.07.06)

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塔子山公園―成都雑感〔145〕―

2013年04月14日 14時54分46秒 | 観光(成都)

昨日(2013年4月13日)は土曜日で、成都には珍しく快晴の日で、市街東(成渝高速道路起点の五桂橋南側)にある塔子山公園に出かけてみました。塔子山公園は、塔子山苗園(市内緑化の苗木生産基地)を基にして公園化し、1987年春節に開放されました。総面積26.8平方㎞、緑地面積21.93平方㎞と、緑の木々豊かな公園(銀杏ほか、80余種4万余株)です。市内からは、10路(映花園站~五桂橋公文站)・38路(国際商貿城公文站~成都東客站公文站)・58路(万家湾公文站~五桂橋公文站)・81路(金沙公文站~五桂橋公文站)で、塔子山公園站下車です。市内へは、以上の路線の他、2路(成都東客站公文站~火車北站公文站)・4路(成都東客站西広場站~茶店子公文站)・71路(成都東客站公文站~昭覚寺公文站)も利用できます(道路工事の関係で、現在は本来の路線経路と異なっていますので、変則的になっています)。なお、地下鉄2号線の塔子山公園站(D口)からは公園南側に現時点では入口がないので、西から北へと遠く回り込むことになります(南大門を設置予定)。

写真1は、迎喗路(蜀都大道)に面した北大門です。市バスの塔子山公園站はここです。入場は無料です(春節時の灯会など、特別活動時は有料)。

写真2は、九天楼です。1997年末に完成した九天楼は本公園最高地点に位置し、塔楼13階、高さ70m、1・2階が方形の大庁、3階から11階が八角形、12・13階が4つの小亭の組み合わせ構造となっています。エレベーターが設置され、本来は登楼が出来ることになっていますが、現在は運転されておらず、登楼出来ません(というより、楼1階の茶館「天楼茶社」も営業しておらず、管理人員も見られず、管理が不十分な状態です)。

写真3は、12・13階のアップです。小亭の組み合わせ構造がお分かりでしょう。

写真4は、「堆秀牆」(古蜀文化の彫刻壁・2003年春創設)を主体に後方に九天楼を写し込んだものです。御覧のように、彫刻は古蜀文化を代表する三星堆遺跡の目の飛び出た縦目面具を模したものです。

春節の前後3週間ほど、本公園では成都市で最大の灯会を催します。その節に成都を訪れたのなら、行くのもよいでしょう。最後に、公園案内図や案内掲示は一切ありませんし、茶館・売店とも営業していないことに注意して下さい。

(2013.04.14)

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