2022年10月29日(土)、武蔵野文化協会主催の「国史跡鎌倉街道上道と武蔵武士ゆかりの史跡を巡る」に参加して埼玉県を巡りました。東武東上線坂戸駅北口に集合して、9時35分にバスで出発しました。
最初の訪問地は、大類古墳群1号墳の苦林古墳(入間郡毛呂山町川角2238)です。現在の長約23mの前方後円墳で、写真1は、後円部から撮ったものです。頂部に石碑が見えます。
写真2は、1931年に立てられた「苦林野古戦場之遺蹟」碑です。ここは貞治2年(1362)6月に鎌倉公方足利基氏と宇都宮氏綱重臣芳賀禅阿子息との合戦地です。
写真3は、奥の前方部に立つ文化10年(1813)銘のある千手観音石仏像です。苦林野合戦の戦死者供養のため里人が建立したものです。
次に訪問地は十社神社(入間郡毛呂山町大類29)です。写真4は、神社入口から奥に社殿です。本神社は苦林野合戦で芳賀軍の武将岡本信濃守と刺し違い戦死した基氏軍の金井新佐衛門等の10名の戦死者の慰霊のため祀ったもので、当初は十首神社と呼ばれていました。
写真5は、社殿です。社殿右奥の盛り上がった所は古墳です。「神社境内を含めこの周辺には古墳が群集しており大類古墳群です。、
次いで写真6の、大類寺(入間郡毛呂山町大類112)です。越生町の新義真言宗の報恩寺の末寺です。
写真7は、本寺墓地にある板碑です。この他に随所に板碑があります。
写真8は、宝篋印塔です。上から相輪・傘・塔身・基礎・反花座と揃っています。
写真9は、寺から南に撮ったものです。寺の辺りは児玉党の大類氏館跡とされています。大類氏は上野国群馬郡大類を名乗りの地とされる小武士です。
毛呂山町歴史民俗資料館を見学後、学芸員の案内で発掘調査がされ国史跡に指定予定の毛呂山町の鎌倉街道上道(毛呂山町大類)を巡ります。写真10は、発掘調査で石畳があったことが確認された所で、現在は埋め戻されています。
写真11は、これから少し行った所にある案内標識から見た延宝4年(1676)建立の庚申塚で、川角古墳群の円墳上に立っています。
街道から離れ左に入ると、写真12の、川角古墳群(入間郡毛呂山町川角)です。
写真13は、川角古墳群内に立つ延慶の板碑です。延慶3年(1310)の銘があり、約3mの大型板碑で、朝妻氏夫妻の供養塔とみられます。
写真14は、川角古墳群の地は崇徳寺跡です。この地からは多量の板碑等が発掘された、他の発掘物からも、この地が中世の墓地であったことが確認できます。

写真15は、毛呂山町大類グランド(入間郡毛呂山町大類717)の立つ堂山下遺跡説明板です。ここらは街道の越辺川渡河点の苦林宿でした。
最後の写真16は、昼食の場としたおしゃもじ山公園(比企郡鳩山町赤沼2430)の展望台から南に撮ったものです。写真中間に越辺川が左右に流れているのが見えます。西方の山麓を鎌倉街道上道が通っていました。
(2022.10.31)