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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

旧藤本家住宅―歴史雑感〔66〕―

2021年05月28日 16時56分48秒 | 日本史(近世・近代)

2021年5月25日(火)午前、馬場花木園内(横浜市鶴見区馬場2−20−1)にある旧藤本家住宅を訪れました。本住宅は、江戸時代末期~明治初期に現在の港北区篠原に建てられた茅葺き農家を、現在の地に1913年に移築されたものです。主屋(45坪)と東屋(7坪)とがあります。横浜市特定景観形成歴史的建造物に2016年11月15日に指定されました。

写真1は、右側(東)からの主屋全景です。

写真2は、左側(西)からの主屋全景です。

写真3は、西からの主屋全景です。ご覧のように主屋何面は庭として整備されています。

写真4は、ドマからのチャノマです。左の柱が大黒柱です。奥に左がザシキ、右にデイです。

写真5は、ダイトコロ(土間)から見たザシキと奥にデイです。ザシキの右上に神棚がまつられています。

写真6は、逆にデイからザシキとダイトコロです。

写真7は、デイからの庭です。

写真8は、西側の北にある厠です。

写真9は、ダイトコロで、農具が展示されています。

写真10は、主屋の東に離れて建っている東屋です。

写真11は、同じく東屋です。

最後の写真12は、庭越しの主屋です。紫陽花を入れて撮りました。

(2021.05.28

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鎌倉幕府第2代将軍源頼家は何時元服したのか―歴史雑感〔65〕―

2021年05月02日 15時01分33秒 | 日本史(古代・中世)

源頼家の元服を明示する史料は存在していません。では頼家は何時元服したのでしょうか。建久8年(1197)12月15日、源頼家は従5位上に叙爵し右近衛権少将に任官しました(『公卿補任』第二篇正治2年条源頼家尻付)。なお、これは京官除目です(『猪熊関白記』同日条)。ということはこれ以前に元服していたことになります。

周知のように源頼家は初代将軍源頼朝の長男として正室北条政子が寿永元年(1182)8月3日に出産し、万寿と名付けられました。順調に成長して、建久4年(1193)5月16日、富士巻狩りで、「将軍家家督若君(万寿)始めて鹿を射せしめ給う」(『吾妻鏡』同日条)と、初めて鹿を射止めます。頼朝は直ちに狩を止めて、夜に入り山の神に感謝する矢口祭を催します。矢口祭は、集団に於いて生まれて初めて野獣を仕留めた男子がこの集団から一人前の猟師と認められる証として行われる祭りで、それ故に、頼家への矢口祭は事実上の成年式当たると、千葉徳爾氏が意義を評価しています(『狩猟伝承研究』第二章日本狩猟史の諸問題1969年風間書房)。すなわち、万寿、後の頼家が頼朝の後継者としての資格が備わったということです。時に頼家は12歳であり、頼朝が初官、皇后宮権少進に任官した時も12歳でした(『公卿補任』第一篇文治元年源頼朝尻付)。万寿は狩と年齢から元服にふさわしい時期となったのです。

富士巻狩りは引続いて行われました。しかし、周知のように、28日深夜、曽我兄弟の仇討ちが行われ、工藤祐経が討たれ、多くの御家人が死傷しました。続いて6月に入ると、常陸国の有力御家人大掾氏の多気義幹が多気山城に立籠り、結果義幹の所領は没収され、駿河に追放されます(『吾妻鏡』同年6月5・22日条)。7月に入ると、同じ常陸国の小栗重成が「物狂」となり、鹿島社造営奉行を罷免されます(『吾妻鏡』同年7月3日条)。さらに、8月2日、反逆の疑いをかけられた頼朝異母弟三河守源範頼が起請文を献じ、最終的に17日に伊豆国に追放されます(『吾妻鏡』同日条)。24日には、石橋山合戦以来の相模国御家人の大庭景義・岡崎義実が出家を遂げています(『吾妻鏡』同日条)。年末が近づいた11月28日には甲斐源氏の越後守安田義資が誅戮されます(『吾妻鏡』同日条)。この連続した騒動では晴れやかに万寿の元服式を行える環境とはいえないでしょう。いわば頼朝は政権内部の矛盾・動揺を正すことを優先しなければならなかったといえます。これは翌年の甲斐源氏の雄遠江守安田義定の誅戮もそうでしょう。いわば、建久4年後半から5年にかけては潜在的にも頼朝の対抗馬となりえる門葉源氏排除に力を注ぎざるをえなかったといえます。

建久6年(1195)、頼朝は正室北条政子・長女大姫・長男万寿を伴い、2度目の上洛を行いました。この上洛は周知のように、東大寺再建供養(3月12日)参列のためでした。もちろん、頼朝は参内して、2度にわたり関白九条兼実とも対談しました(『吾妻鏡』同年4月10日・5月22日条)。そして、6月3日、「将軍家若公〈一万公、歳十四、布衣〉御参内、網代車に駕し給う、(中略)弓場殿において御釼を賜う」(『吾妻鏡』同日条)と、万寿、すなわち改名して一万が単独で参内し、御剣を賜りました。元服前の童殿上(童の殿上人)というものです。長徳4年(998)11月19日、内覧左大臣藤原道長の嫡子鶴君(後の頼通)が元服前の男子の昇殿、すなわち童殿上が聴るされています(『伏見宮御記録』利一・権記同日条〔『大日本史料』第二篇之三〕)。頼通は長保5年(1003)に12歳で元服して正5位下に叙せられていますから(『公卿補任』第一篇寛弘3年藤原頼通尻付)、7歳で童殿上を聴るされたことになります。このように童殿上の例は基本的に摂関家の子弟です。この童殿上は当然ながら朝廷、すなわち主導者である関白九条兼実の了承なしには行えません。なお、童殿上ということは頼家がこの段階で元服していなかったということです。頼朝の東大寺再建供養への上洛は晴儀といえ、上洛前か後かは別にして、これを機会に元服し、叙爵・任官、参内の流れが自然と思えるのですが、『吾妻鏡』に従えば何故か元服はなされなかったことになります。

ところで、坂井孝一氏はこの一万の参内について不自然あるとし、すでに建久4年の巻狩り後に元服していた主張しています(『源氏将軍断絶』2021年1月PHP新書頁87)。しかし、坂井氏は元服の根拠を挙げず、ただ主張しているだけです。後継者である一万の元服は最も晴儀たるものであり、全御家人から祝されるものです。そうならば、曽我兄弟の仇討に端を発し、騒動が連続した中では、御家人間の動揺・猜疑も深まり、とても落着いて晴儀を行える環境ではないと考えるのが普通でしょう。それに、上洛以前に元服していたならば、当然に叙爵し任官していなければ不自然です。坂井氏は頼朝との関係が良好でなかった兼実が叙爵を許可しなかった可能性があるとしてます。

周知のように、二度目の上洛では頼朝は大姫入内工作に熱心で、このため丹後局に接近して多大の贈物をしたのに対して、兼実には馬2疋と些少で差が大きく、これにより頼朝は兼実に冷たかったとの評価です。しかし、一万が童殿上をなしたことは兼実は頼朝を摂関家に準じる家格で待遇したことを意味しており、むしろ優遇したといえます。無位無官の参内は例がなく、そのような先例なきことを朝廷が認めるとは思えません。従って、坂井氏の主張には従いかねます。

以上、建久4年の初鹿獲りでの矢口祭、建久6年の上洛と元服の環境はありえましたが、いずれも元服はなされませんでした。とすれば、建久8年12月15日の京官除目で叙爵任官は元服していることが前提ですから、12月以前の近い時期に元服したとするのが至当です。すなわち、頼家の元服時期は建久8年ということになります。おそらく、京官除目に合わせて、これに間に合うように11月の吉日を選んで元服式を執り行ったとするのよいでしょう。7月14日、入内させようと運動していた長女大姫が死去します(『愚管抄』巻第六)が、この喪を払う意味があったかも知れません。ただ、16歳になるここまで元服が延びた理由は不明ですが。この時の朝廷の主導者は源通親でしたが、すでに摂関家に準じて童殿上を行っている以上、これに準じた叙爵となり、摂関家庶子の初叙である従5位上にされたことになります。この時期は『吾妻鏡』が欠文ですから、頼家元服記事がないのは当然なことです。

(2021.05.02)

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