

















2021年11月8日(月)午後、三愛丸山常設展示に続いて特別展示「あおもりの縄文世界」を見学しました。青森県出土品から縄文世界を探訪できる構成となっています。
写真1は、網籠(三内丸山遺跡 縄文前期)です。
写真2は、細隆起線文尖底深鉢型土器(三内丸山遺跡 草創期)で、縄文最古級のものです。
写真3は、土器(三内丸山遺跡 中期 重文)、深鉢形土器(つがる市石神遺跡 中期 重文)、土偶(石神遺跡 中期 重文)です。
写真4は、深鉢形土器(三内丸山遺跡 前期 重文)で、いろいろな縄目文様があります。
写真5は、円筒土器(三内丸山遺跡 中期 重文)です。
写真6は、遮光器土偶(西目屋村川原平遺跡 晩期)です。
写真7は、亀ヶ岡式壺型彩色土器(つがる市亀ヶ岡遺跡 晩期)と漆塗り壺型土器(西目屋村川原平遺跡 晩期)です。
写真8は、黒漆塗り鉢形木器(三内丸山遺跡 前期 重文)です。
写真9は、開窩式離頭銛(東北町東道ノ上遺跡 前期)です。
写真10は、狩猟文土器(西目屋村川原平遺跡)です。樹・弓矢・動物等を描いています。
写真11は、土製仮面(青森市羽黒平遺跡 晩期)です。
写真12は、石棒(西目屋村砂子瀬遺跡 後期)です。
写真13は、石刀(西目屋村川原平遺跡 晩期)です。
写真14は、人面付き土器(西目屋村川原平遺跡 晩期)です。
写真15は、遮光器土偶(三戸町八日町遺跡 晩期)です。
最後の写真16は、網組製器(三内丸山遺跡 前期)です。
以上で、三内丸山遺跡見学は終わりです。集合時間まで時間があったので、コーヒーを喫し時間を過ごしました。14時30分に出発し、はやぶさ23号新青森発15時31分・新函館北斗着16時36分着で北海道に渡り、17時30分に湯の川温泉のロイヤルホテル南北海道鹿部に到着しました。
(2021.11.24)
2021年11月8日午後、遺跡見学に続き、時遊館内の三内丸山遺跡出土品をを展示している「さんまるミュージアム」(常設展示室)を見学しました。ここには重要文化財約500点を含む総数約1,700点の遺物を展示しています。以下、幾つかの展示品をお見せします。
写真1は、青竜型石器です。
写真2は、異形石器(重文)です。
写真3は、岩偶です。
写真4は、土偶です。
写真5は、木製片口容器です。
写真6は、ヒスイ製大珠です。
写真7は、装身具(重文)です。
写真8は、刺突具(重文)です。
写真9は、大型板状土偶(重文)です。
写真10は、砥石(重文)です。
写真11は、半円状扁平打製石器(重文)です。
写真12は、石錐(重文)です。
写真13は、黒曜石製石槍です。
写真14は、黒曜石製石鏃です。
写真15は、円筒土器・深鉢形土器(重文)等です。
写真16は、縄文前期の網籠(重文)、縄文ポシェットです。
写真17は、クリの大型木柱です。
写真18は、クリの大型木柱残です。
写真19は、盛土から出土した土器・石器等です。後方は盛土地層です。
写真20は、円筒下層式前半の土器です。
写真21は、各期の円筒土器展示です。下段から下層式前半・後半・上層式前半・後半です。
写真22は、漆塗の台付皿残片(重文)です。
写真23は、漆塗壺型土器(重文)です。
写真24は、土偶です。
写真25は、人物文様付き土器です。
最後の写真26は、子供墓に使われた土器です。
三内丸山遺跡見学の最後として特別展示見学に向かいます。
(2021.11.22)
2021年11月8日(月)10時50分過ぎに三内丸山遺跡(青森県青森市大字三内字丸山)に到着しました。まず三内丸山遺跡センター前にある「縄文時遊館・五千年の星」で昼食です。その後自由見学です。
写真1は、遺跡入口からの三内丸山遺跡全景です。
写真2は、大型竪穴住居(復元)です。
写真3は、同じく大型竪穴住居(復元)です。
写真4は大型竪穴住居内です。、
写真5は、大型立柱建物(復元)です。2列・3基の柱穴(直径2m・深さ2m)が約4.2m間隔で並びます。柱穴から直径1mの栗の木柱が見つかり、縄文中期後半(紀元前2600年前)と考えられています。
写真6は、同じく大型立柱建物(復元)です。
写真7は、大型立柱建物(復元)説明板です。
写真8は、大型竪穴住居(復元)と大型立柱建物(復元)です。
写真9は、大型立柱建物跡です。ご覧のように6基の柱穴が整然と並んでいます。
写真10は、木柱が残る柱穴です。
写真11は、子供墓跡です。
写真12は、北盛土跡です。
写真13は、高床式建物(復元)です。
写真14は、大型竪穴住居跡です。
写真15は、大人墓(土抗墓)跡です。
写真16は、竪穴建物群(復元)です。
写真17は、竪穴建物内です。中央の炉に薪がくべられています。
写真18は、青森市立新城小学校6年生制作の茅葺竪穴建物(復元)です。
最後の写真19は、南盛土跡です。残土や石器・土器等が棄てられた盛り上がったものです。以上で遺跡見学は終わりです。ほぼ時計回り巡り見学時間は約40分でした。
続いて出土品展示となります。
(2021.11.19)
ツアー2日目の2021年11月9日(月)は縄文の学び舎・小牧野館(青森市大字野沢字沢部108-3)の自由見学からです。近くの小牧野遺跡を紹介しています。ホテルを8時50分に出発して、9時20分前に到着しました。
写真1は、小牧野遺跡の環状列石建設運搬器具を想像復元した展示です。
写真2は、埋設土器です。これは地面に埋められた状態で使用していたので、この命名となりました。
写真3は、環状配石炉です。
真4は、下段から土偶、注口土器、クマ型土製品です。
写真5は、壺型土器です。
写真6は、擦傷のある石です。
写真7は、山野峠遺跡の石棺墓(復元)です。
写真8は、深鉢形土器です。
写真9は、山野峠遺跡の狩猟文土器です。以上で本館は終わりで、9時50分に出て小牧野遺跡に向かいます。
10時に小牧野遺跡に着きました。本遺跡は縄文後期前半に作られた環状列石を主体とするものです。荒川と入内川に挟まれた舌状台地の標高140メートル付近に位置しています。環状列石は、直径35mの外帯・29mの内帯・2.5mの中央帯の3重の輪、それに一部4重となる弧状の列石と外帯を囲む直径4m前後の環状配石等で構成され、最大直径55mです。写真10は、遺跡に入ったところから見た環状列石の左側(北)で、右に立つ列石は中央帯です。
写真11は、奥(南)から環状列石を見たもので、ご覧のように中央帯へは通路があります。皆さんはこれからガイドさんの説明を受けます。
写真12は、南東から南の環状列石を撮ったものです。内帯と外帯に多くの特殊組石があります。
写真14は、東から西へと環状列石を撮ったものです。
写真15は、中央帯です。
写真16は、第9号特殊組石(北)です。
写真17は、第7号特殊組石(北)です。
写真18は、第8号特殊組石(西北)です。
写真19は、南からの環状列石全景です。
写真20は、中央の高い右の列石には「罵倒観世音」「嘉永七甲寅年(1854)願主新山久助」と刻されています。
写真21は、土杭墓跡です。100基を超える土杭墓が環状列石に隣接する東側緩斜面一帯に分布しています。
写真22は、捨て場跡です。環状列石の北、西に沢地形へと傾斜が始まる地点に形成されており、多量の土器・石器・土偶・三角形岩版等が出土しています。
写真23は、竪穴住居跡です。環状列石の北の平場に位置します。
写真24は、平場から陸奥湾を望見したものです。
最後の写真25は、「小牧野遺跡環状列石実測図」(https://komakinosite.jp/index.php/intro/about-komakino.html)です。
10時40分に小牧野遺跡を離れ、次の見学地三内丸山遺跡に向かいます。
(2021.11.17)
2021年11月7日(日)、つがる市森田歴史民俗資料館から次の見学地、縄文晩期の集落遺跡である亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市木造亀ケ岡)に14時55分に到着しました。写真1は、本遺跡出土品を代表する遮光器土偶(重要文化財 東京国立博物館所蔵)の出土地です。ただし、考古学的調査により発見されたのではなく、地元民の発見のため、正確な出土地は不明で、この低湿地内ということです。17世紀前期の築城により遺物が発見され、以後地元民等が遺物を発掘し、好事家に知られるようになりました。1889年(明治22年)に初めて学術調査が行われて現在に至っています。この一帯の低湿地から土器・石器等の多数の遺物が出土しました。
写真2は、遺跡入口に立てられている、遮光器土偶モニュメントです。
近くのつがる市木造亀ヶ岡考古資料室(青森県つがる市木造若緑52)に移動し、亀ヶ岡遺跡出土品の見学です。写真3は、土器・石器類の展示です。土偶・石棒・石斧・石鏃・壺型土器等です。
写真4は、縄文晩期の注口土器です。青森県立郷土館風韻コレクション(八戸市是川遺跡出土等)です。
写真5は、赤漆塗り壺型土器です。1982年の発掘品です。
写真6は、土偶と皿形土器です。
写真7は、頭のない遮光土器です。亀ヶ岡遺跡の北側の低湿地、近江野沢から出土した縄文晩期前半のものです。ベンガラと考えられる塗料で赤く、中は中空です。
写真8は、縄文後期の土偶頭部です。
写真9は、縄文晩期の赤漆塗り皿形籃胎漆器です。
写真10は、赤漆塗り骨製垂飾品です。
写真11は、竪穴住居内の縄文人の生活ジオラマです。
写真12は、円筒下層式土器(左2基)、円筒上層式土器(中央2基)、大木10式併行土器(右)です。
写真13は、縄文早期の貝殻文土器です。青森県埋蔵文化財調査センター所蔵です。
写真14は、同センター所蔵の縄文中期の榎林土器です。
写真15は、同センター所蔵の縄文後期の十腰内式土器です。
写真16は、亀ヶ岡展示遺跡コーナーとして、石器・漆器・土器等が展示されています。
写真17は、石神遺跡出土の縄文中期の円筒上層b式土器です。
写真18は、同センター所蔵の土偶(三戸町泉山遺跡出土)です。
最後の写真19は、川村彫刻所制作の重要文化財遮光土偶像です。
以上で、本日の見学は17時に終え、18時40分にアートホテル青森に入りました。
(2021.11.15)
2021年11月7・8・9日(日・月・火)、クラブ・ツーリズム主催の「日本の先史時代がニコル縄文ロマンの旅へ北海道・北東北縄文遺跡ハイライト3日間」で縄文遺跡を巡ってきました。基本見学地は、
初日 大森勝山遺跡、森田歴史民俗資料館、亀ヶ岡遺跡、つがる市木造亀ヶ岡考古資料室
2日 縄文の学びや・小牧野館、小牧野遺跡、三内丸山遺跡
3日 大船遺跡、函館市縄文文化交流センター
です。
JAL143便羽田9時55分発青森11時10分着で青森に飛びました。最初の見学地は世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の大森勝山遺跡(青森県弘前市大森勝山)です。12時30分に到着しました。地元ガイドの案内付き(以後の見学地も同様)です。本遺跡は岩木山の東北山麓に位置し、約3千年前の縄文晩期の環状列石の遺跡です。
写真1は、環状列石の外側にある屋外炉です。本遺跡は発掘調査後に埋戻し、表面土上に移行をレプリカ展示しています。同型同質の石を用いています。
写真2は、遺跡入口から左に環状列石を撮ったものです。環状列石は楕円形で長径48.5m・短径39.1mです。77基の組石が約1200個の石で作られており、過半の石は遺跡の南北を流れる大森川・大石川の川原石です。
写真3は、右に環状列石を撮ったものです。
写真4は、石を触ながら組石を説明中のガイドさんです。
写真5は、中央の組石です。奥に岩木山が見えます。
写真6は、さらに奥の組石で、環状列石の奥には竪穴建物跡、さらに奥に岩木山が見えます。冬至前後には岩木山山頂への日没が見られます。
写真7は、前の組石を角度を変えて拡大して撮ったものです。
写真8は、土器埋設遺構です。
写真9は、環状列石の南東約100mに位置する竪穴建物跡です。正面奥が岩木山です。
写真10は、竪穴建物跡です。直径14.1mで、4本の柱跡が残され、中央は直径約1.5mの石組炉です。建物跡はここ一棟のみであり、住居ではなく、祭礼等の何らかの儀式の場と考えられています。
写真11は、環状列石の手前に東の台地端に位置する捨て場です。ここから土器・石器・土製品等が出土しました。以上で本遺跡は終わりで、13時前に遺跡を離れ、五所川原市で昼食となりました。
昼食後の最初の見学地のつがる市森田歴史民俗資料館(青森県つがる市森田町森田月見野340−2)には14時に着きました。本館の西南約1kmに位置する縄文前・中期の石神遺跡(つがる市森田町床舞石神地内)出土品を中心に展示をしています。本遺跡では円筒土器が層位的に順序正しく出土しました。
展示品の写真をお見せします。写真12は、石器類の展示で、石鏃・石匙・石斧等です。
写真13は、上段は縄文前期の円筒下層a式土器(重要文化財。以下同様)、下段は石臼で、石神遺跡出土品です(以下同様)。
写真14は、縄文前期の円筒下層d1式土器と円筒下層d2式土器です。
写真15は、縄文中期の円筒下層b式土器と円筒下層c式土器です。
写真16は、板状土偶です。
写真17は、板状土偶頭部です。
写真18は、縄文中期の円筒上層a式土器の人面付深鉢形土器です。
最後の写真19は、縄文中期の円筒上層c式土器です。14時30分に出発し、亀ヶ岡遺跡に向かいます。
(2021.11.13)
横浜市営地下鉄ブルーライン・グリーンラインのセンター南駅の西に広がる横浜市立都筑中央公園(横浜市都筑区茅ケ崎中央)には遺跡があります。境田貝塚です。公園の東、杉山神社の西に隣接しています。2018年11月28日(水)午前に訪れました。
写真1は、遺跡を示す「境田貝塚」碑と案内板です。本貝塚は縄文時代前期(約6~5000年前)のものです。公園の北を流れる鶴見川支流の早渕川は縄文時代にはこの付近まで海進が進んでいました。本貝塚は早渕川海進の最奥にあったものです。
写真2は、東に延びる舌状台地を西から撮ったものです。貝塚遺址は台地の南北斜面にありますが、住居遺址は発見されていません。なお、台地東斜面には杉山神社が鎮座しています。
(2018.11.30)
2017年2月10日(金)、大塚・歳勝土遺跡公園に行ってきました。本公園は、弥生時代中期の環濠集落遺跡である大塚遺跡と方形周溝墓の歳勝土遺跡を含んで、これらを保存するためにも一帯を横浜市が公園化したものです。最寄り駅は横浜市営地下鉄ブルーラインのセンター北駅で東に徒歩約8分です。道路を挟んで西に横浜市立歴史博物館があります。本遺跡遺物も展示されています。
本公園は南北を谷に挟まれた東西に広がる丘陵上にあります。公園入口から北に竹林を上がっていくと地形模型のある広場に出て、「国指定史跡 大塚・歳勝土遺跡」の石柱が立っています。この左手(西側)に大塚遺跡があります。写真1は、本遺跡入口です。開園時間は9時~17時(休園日 月曜日〔祝日の場合は翌日〕、年末年始)です。
写真2は、環濠集落本来の入口に当たり、遺構から堀上に木橋(材質ナラ)が架けられていたのを復元したものです。木柵・土塁は空堀(最大で幅4.5m・深さ2.5m)の外側にあります。遺跡全体の東側約1/3が保存保護されて、この保護部分全周250mを柵・土塁・空堀が囲んでいます。
写真3は、復元された住居です。7棟が復元展示されています。入母屋造りで主柱は檜で屋根は茅です。この他、住居址20棟が保存されてその位置を石で囲んでいます。遺跡全体は約1.5mの盛土で保存されています。
写真4は、発掘調査時の住居跡を再生したものです。遺跡のほぼ中央にあるY-17号住居址で2回建て直されたと考えられています。特殊加工のガラス繊維強化樹脂セメントで再生しており、中に入れます。
写真5は、復元した高床倉庫です。柱に円形状に付けられた板はネズミ返しです。また、入口へは厚板・丸木に足掛けを刻んだ一本梯子で上ります。
大塚遺跡を出て、南に少し行くと、歳勝土遺跡です。本遺跡は大塚遺跡の住民の墓地と考えられています。写真6は、方形周溝墓の埋葬内部を復元したものです。中央に穴があり、ここに棺が納めれていたと考えられます。
最後の写真7は、盛土上に復元した埋葬当時の方形周溝墓です。3基が復元されています。右側には墓の位置を石で囲って保存しています。
(2017.02.12)
師岡熊野神社(最寄り駅・東急東横線大倉山駅、最寄り停留所・師岡熊野神社前)の北側丘陵上に師岡貝塚(神奈川県横浜市港北区師岡町1137番地2)があります。神社社殿の左側(西)から前に進むと、丘陵への登り道があります。この頂上が「熊野神社市民の森」として整備され、頂上南側が貝塚です。ここは鶴見川中流右岸の丘陵で、北西に張り出した半島状台地基部から北東に分岐した舌状台地南半部に位置し、標高約43mです。本貝塚は縄文前~中前期のもので、規模は東西約20m・南北約15m以上と推定されています。発掘調査により、ハイバイが主体で、ハマグリ・アサリなどの海水性の物から構成されています。すなわち、本貝塚は縄文海進により形成された古鶴見湾岸に形成された保存状態のよいもので、1994年11月に横浜市指定史跡に指定されました。
写真1は、本貝塚案内板を左端に見た貝塚で、御覧のように発掘調査後は保存のため埋め戻されています。
写真2は、左手から貝塚全体を撮ったものです。右上部に見える屋根は「熊野神社市民の森」中央北側に建てられた東屋のもので、ここで足を休めることが出来ます。
最後の写真3は、師岡熊野神社からの登り道上から見た貝塚全景です。台地頂上部の南側に位置して、御覧のようにわずかに傾斜しています。以上、写真は2016年6月11日(土)午前に訪れたものです。
(2016.06.12)