(その1)一、東山道軍の交名一覧
(その2)二、交名の国別構成
(その3)三、交名の門葉構成
(その4)四、交名の武士御家人構成
三、交名の門葉構成
交名は源家御一族(門葉)、武家御家人の順で配列構成され、文士御家人は両者に個別に配列されています。そこで、配列順に従い、門葉の配列構成を分析します。
門葉は18名で、34・35の南部光行・平賀朝信を除き、1の平賀義信から20の加々美長綱まで、交名先頭部に集中して配列されています。この配列は北条氏3名を夾んで、前半部の五位級(諸大夫)10名と後半部の六位・無位級(侍)の6名とに分かれます。
さて、この五位級門葉の顔ぶれを見ると、最初の関東御分国である武蔵守平賀義信・駿河守源広綱(『吾妻鏡』元暦元年六月二十日条)、次いで文治受領の信濃守加々美遠光・相模守大内惟義・上総介足利義兼・伊豆守山名義範・越後守安田義資(『吾妻鏡』文治元年八月二十九日条)、そして豊後守毛呂季光(『吾妻鏡』文治二年二年二月二日条。なお、季光は公家の太宰権帥藤原季仲子孫ですが、『吾妻鏡』建久元年十一月七日条に見るように、奥州合戦勝利後の源頼朝建久第一次上洛の入洛行列交名において、前後を清和源氏の武士とともに後陣随兵の一員として列しており、武士扱いといえます)と、関東御分国9か国(『吾妻鏡』文治二年三月十三日条)の内、8か国の名国司が配列されています。ここで交名に見えない下総守源邦業(『吾妻鏡』建久元年十一月七日条等)は醍醐源氏であり、後に頼朝の政所別当に就任しているように(『吾妻鏡』建久三年六月二十日条)、武士ではなく文士です。従って、関東御分国の武士名国司8人全員が交名に配列されているのです。これに1183(寿永2)年の源軍第一次上洛で頼朝とは無関係に自身の力量で任官した国務国司の、2の遠江守安田義定(浅香年木氏『治承・寿永の内乱論序説』1981年法政大学出版局参照)と、頼朝の推挙を受けていますが、やはり国務国司である3の源範頼(拙稿「蒲殿源範頼参河守補任と関東御分国」『政治経済史学』第370号1997年4・5・6月参照)とを含めて、頼朝の影響下にある東国国司の門葉が全員参加しています。このことは奥州侵攻幕府軍が東国武士の総力を挙げたものであることを表しています。頼朝直卒の鎌倉進発の中軍に東国の五位級門葉を勢揃いさせたことは、東国武士の頂点に立つのが頼朝であることを見せつけているのです。すなわち、武家棟梁は頼朝であることをです。同時に交名先頭に五位門葉が配列されたことは、彼等が頼朝の補翼であるとともに、彼に替わりえて武家棟梁有資格者であることを示しています。
同時に配列順は当該期における頼朝から見た門葉の序列を表示しているといえます。当然ながら、これには各人の実力も反映されます。すなわち、序列第1位は信濃源氏の平賀義信であり、この序列は文治・建久期の『吾妻鏡』交名においては不動です(文治元年十月二十四日・建久三年十一月二十五日条等)。第2位は甲斐源氏の安田義定です。第3位は頼朝異母弟の範頼です。第4位は甲斐源氏の加々美遠光です。以上、身内である範頼よりも、治承寿永の内乱初頭で独自に蜂起した信濃・甲斐源氏の代表者を上位することで、頼朝の出自である清和源氏頼義流が総力を挙げて奥州侵攻に参加していることを表しています(義信・義定とも頼義3男の義光子孫)。特に甲斐源氏においては、1・9の安田義定父子、4・19の加々美遠光父子、そして武田系では、内乱時の嫡系である信義・忠頼父子の死去により実力は落ちていますが、17の有義(平家時代に信義父子で唯一兵衛尉の任官歴をもち、信義嫡男と考えられていました〔五味文彦氏、「平氏軍制の諸段階」『史学雑誌』第88編8号1979年8月参照〕)と18の信光との兄弟が順に配列されて、ここに甲斐源氏の三大潮流が勢揃いしています。いわば甲斐源氏の総力を挙げているといえます。以上を逆にいうと、信濃・甲斐源氏が反頼朝で奥州藤原氏に呼応するとしたら、東西から頼朝は挟撃されて、奥州侵攻はできないということです。
第7位の足利義兼、第8位の山名義範と、関東(下野・上野)の義国流は甲斐源氏の下位となっており、甲斐源氏に比較してその地位・実力が低いことを反映しています。また、地位的には平賀義信が第1位で上位ですが、第2位の安田義定が実力で切り取った遠江国を国務国司として1183年以来掌握しており、三大潮流が勢揃いしている甲斐源氏総体では明らかに信濃源氏平賀氏に実力的に上位しています。逆にいうと、平賀氏の序列が上位ということは頼朝が平賀氏を信頼してこれに依拠して高く買っていることを表しています。以上、実力からいうと東国源氏では甲斐源氏、信濃源氏平賀氏、義国流の順ということになり、序列からいうと信濃源氏、甲斐源氏、義国流の順ということになります。
なお、11~13の北条時政父子が門葉諸大夫の次ぎに配列されていることは、この配列に作為がないとしたら、北条氏は門葉扱い(准門葉)となっていましょう。
(続く)
(2014.02.25)