FMヨコハマ PROGRAM COUNCIL『Fを越えた男たち』
インタビュアーは鮎貝健さん。(Aで表記しています。)
2007年1月にオンエアされたもので、30分間が誠さんの登場された時間のようです。
==パート1==
M どうもこんばんは!
A 初めまして!
M どうぞよろしくお願いいたします!
A さあ、今日はギターの方も持ってきていただきまして。ありがとうございます!
M あっ、こんなところにギターがっ!!
A (笑)・・素敵な小芝居も入れていただいてありがとうございます。
斎藤誠さんは、1958年の1月3日生まれということなんですけれども・・・ついこないだ、じゃあお誕生日だったんですね!
M はい、もう誕生日嬉しい!とかいう歳じゃないですけども。
A おめでとうございます!
M ハイ、いい歳になりました!
A 実際そうすると、何年くらいのギターとの付き合いになるんでしょうね?
M ・・・42,3年?小学校に入ったら、何となくウチにあったんですよ。
うちの兄貴が、何か知らないけどギターを弾いていて、ベンチャーズなんつって(・・・と、ここでアコギではあるけれど、少しテケテケを披露下さる)
A でも、エレキで。
M かっこいいなあ、あれなんだろうな?っていって。追いつこうと思ったんですけども、何やっても兄貴の方が強くて。
喧嘩やっても、ギター弾いてもね、絵を描いても。だから、最初僕は兄貴のコピーから始まったんですね。
A いくつくらい違うんですか?
M 4つです。
A ああ、それくらい違うと結構・・・・、
M うんうんうん。
A なかなか追いつけないですよね。
M でも、ひとつ何かこう目標があったから、わかりやすかったんですよ。
A それでギターを始めるキッカケになって。
やっぱりそれじゃあ、そしたらその当時はベンチャーズ?
M 僕は、唄が好きでビートルズだったんですよ。
A ほーー。
M で、ビートルズがもうすぐ来日するとかいう時だったんですね。
それで、子供で普通ビートルズ聴いてるヤツはいないんですけど。
大体、サッカーか野球なんですけども、僕はそっとビートルズをヘッドフォンで聴いて。
一応、あのぅ、野球もやってたんですけど、野球・・・放課後呼びに来ると、ヘッドフォンして居留守を使ったりとかしてましたね。
A ほおー。
M 「オブラディ・オブラダ」とか聴きながら。
A へえー。居留守ですか(笑)。小学校の時から・・・。
M おふくろに怒られましたけどね、「外に行って体動かしてきなさい」なんてね。
A その時に描いていた夢というのは?もう具体的に、自分がステージに立つことまで描いてたんですか?
M そんなこと、ぜんっぜんなかったですね。
大体、自分がたとえばこうやって音楽やって飯食っていこう、っていうふうに思ったのは、ずっと先で大学4年の時なんですよ。
文化祭とか、お別れ会とか・・・そういうときの、必ずいなきゃいけないような人間だったんですよ。
そういうとこで「賑やかし」として。だからまあとにかく、ギターが1本僕の傍らにあったということで・・・目立てたっていうかね。
あの・・・今言いませんけど、ベルボトムのジーンズなんてものをね、3本くらい買ってきて、それでパッチワークみたいにするんですよ。
それで1本を作り上げるんですよ、自分の足の太さにぴったり合った・・・そんなにぴったり合わなくてもいいだろうぐらいの。すっごいきつきつのやつをね。
そんなことやって、「これがロックだ!」なんてね。
A 手作りなんですか、そういうのは?
M ま、母親に作ってもらうわけですよ。「ここはこの色にしてくれよ」とか言ってね。
A 結構僕はメタル系で、スパッツ買ってきて・・・鋲を打ったりとかしてね、、
M(笑)・・・時代が違うだけで、おんなじ発想だと思います。
A そこまでぴったりじゃなくてもいいだろう!みたいな。で、なぜかレッグウォーマーみたいな。
M あ、80年代だ!そうですね!
A ま、そんな僕の思い出はさておきですね(笑)ちょっとそんなことを思い出してしまったんですけども。
そんな斎藤誠さんのギターアイドルというのは、ズバリ?
M マウンテンというね、グループがいたんですよ。
A マウンテン!!
M その当時はクリームの弟的バンドなんて言われてたんですけども、でもね。ルックスは全く違って。
あのギターの人が、ものすごくデカいんです。あのプロレスのアンドレ・ザ・ジャイアントにクリソツなんですけども。
A えーっ(笑)。
M ものすごい、デカいんですよ!
その人はわざわざ、レスポールジュニアというのを使うんですけども。そうするとウクレレを持っているみたいに見える・・・ぐらいカラダがデカい。
ところがその人のトーンてのが、ものすごい綺麗でね。
僕はその当時ハードロックって言ってましたけどもね。ハードロックの入口がマウンテンでしたね。
A ものすごい綺麗だったというのは?
M あのね、なんだろ。たとえば1つの音を(ギターを実際に弾いて下さる)伸ばすときに・・・ピッキングハーモニクスっていう・・・
A はいはい、倍音を出す、、、
M これが左の手首がモーターついてるんじゃないかくらいに(アコギにも関わらずやって下さる)伸びるんですよ、どこまでも。
「これだと!」
意外とそんなふうに言ってたわりには、イギリスにも好きなバンドが出来て「ユーライアヒープ」という。
A ユーライアヒープ!!なるほどー!
今の斎藤誠さんの音楽を聴いていると、確かに・・・。
でも、中には「なるほどー」ていうね、空気ですよ、空気が!「ユーライア」で「ヒープ」な空気が・・・。
M どうしよもないです。好きなものはしょうがないって感じですね。
だから僕は、あんまり自分でロックのカバーはそんなにしないんですけども、
その今言った「マウンテン」と「ユーライアヒープ」のカバーは普通にやってるんですよ。自分のアルバムで・・・。
==パート2==
A お話していただく中で、学園祭とかではステージに立ったりとか、お別れ会には必要不可欠な人物だったということなんですけども・・・
M (笑)・・・ずいぶんショボいネタですよね、それ。
A ギターと向き合うのが喜びだったというような印象を・・・、
M そうですね、お友達でしたね、ずっとね。
A そんな斎藤誠さんが、青山学院大学の在学中に書いた曲がクラリオンのCMソングに選ばれて・・・
M あ、そうですね、、わりとキッカケなんですよ。音楽の世界に入ったというのは。
ウチの大学の先輩に・・・皆さんあまり知らないと思いますけどね・・・サザンオールスターズというバンドが・・・
A あ、聞いたことあります!
M(笑)そうそうそうそう、どうも!乗っかってくれてありがとうございます!
そのサザンオールスターズがデビューする時にね、僕らがこぞって応援をしたんですよね、、ようするに。
その当時のサザンオールスターズってのが、客が4人ぐらいしかいなかったんですよ。
A ほうほうほうほう!
M 僕と、僕の友達と・・・・。
A ずいぶんマイナーなバンドですね!
M 超マイナーでしたよ!
渋谷の「屋根裏」とかね、「ロフト」とかでやったんですけども。
だけど、まあ、それがある日・・・あれよあれよという存在になっていってしまうんですね。
で、じゃあ僕はずっとサラリーマンになるとか思ってたけども、大学4年になって、なんか音楽もやってみるべきなのかなあってぼんやりしてた時に、
桑田さんがプロデュースした西慎嗣くんていうね、ギタリストのアルバムに「1曲おまえの曲を使わせてくれねえか」と・・・電話がかかってきて、桑田さんから。
「え、何の曲ですか?」って言ったら、タイトルは「Don't worry mama」って曲なんですけども、僕が大学時代に作った曲なんですけども。
それがクラリオンのCMソングになったんですね。それがきっかけですね。
A なるほど。桑田さんから電話がかかってきた段階でもう十分すごいですけどね。
M まあ、腐れ縁ですからねえ。
A でも、やっぱこう時代の中でそういう出会うべくして出会った人たちと一緒に・・・流れがきっとあったんでしょうね。
M あったと思いますね。たぶん、だから僕ほっといたら銀行員になってたと思うんですよ。
うちの親父が銀行員だったんです!だから、ああいうふうになりたいな、ネクタイとか毎朝きちんとして6時半くらいに出てくような生活てね、憧れがあったんです。
A わかります!
M あ、わかります?
A 僕もやっぱりそういうの描いてましたからね。
M でもね、僕はそれを大学卒業する頃に色んな人に言ったら「お前にそんなこと出来るわけないだろ!」って、色んな人に言われたんですよ。
「音楽やめるなんて、10年早い!」みたいなことを桑田さんに言われたりとか。
だんだんそのあたりでスライドして、音楽人間になっていくんでしょうね。
A なるほど(笑)まあ、人生設計が崩れたときに・・・
M ・・・崩れました。
A 人間は、ロックに走るっていう習性が・・・。
M (笑)あー、そうか。
A そんな誠さんなんですけども、まあ色々とお仕事をされてく中で、プロフィールを見ると、
休業期間てのが1991年・・・・にあるんですけども、この期間というのは、どんな期間だったんですか?
M えっと、皆さんもうちょっと記憶の外に外れちゃってるかもしれませんけども、このときはバブルが弾けた頃なんですよ。
だから、それまで着飾ってたヤツがちょっと待てと。お財布の中身を見てみろ!ってみんなが自分の心をね、もう一回見つめ直した頃だと思うんですね。
僕もたまたまその時に、当時いたレコード会社の契約が切れたって時があって。
で、さあ、じゃあ自分の唄以外に、自分のギター以外に何をしようかっていうふうに思った時に、
人のプロデュースとかね、人のレコーディングを・・・スタジオミュージシャンというほどでもないですけど、ギター弾きとして参加したりとか、、、
要するに周りを見るような期間が、この91年から96年まで、5年間以上あって。
これはね、僕にとっては当時は窮地に追い込まれたと思ってましたけどもね、
今考えてみるとね、色んな世界を見れて、色んな人の音楽を聴けて、それに参加出来て。自分形成のためには、すごくよかったと思うんですよね。
A 一歩ひいた目で、逆に客観的にその当時の音楽シーンをご覧になってた期間だと思うんですけど、その頃ご覧になって・・・あと、今たとえばシーンをご覧になって何かこう・・思われることってあります?
M んー。難しい質問ですけども、よくなってきたと思うんです、僕は。91年くらいから。
それまでは、やっぱりあの・・・「四角い音楽」がすごく多くて。
A 四角い音楽?
M 打ち込み中心のクリックのままいく音楽が多くて。
やっぱり90年代アタマあたりから、ループが増えることによって、その元々誰かがドラムを叩いていたものをループして、
それに唄を乗っけるとかいう音楽制作が増えてきたと思うんですよ。そうなってからの方がとっても音楽的になったと思うんですね。
やっぱ80年代中盤戦以降、ちょっと・・・ええと機械に負けてたみたいなね、ミュージシャン。機械に負けてたみたいな時期があったんじゃないかなと・・・。
それが今、機械とすごく共存してる・・・それが90年代前半以降よくなったんじゃないかと思います。
A ちょっと質問を変えましてですね、、
今度・・・斎藤誠さんがですね、すごいな!と思えるギタリストというのは、どんな方なんでしょうね。
M これ、もういっぱいいますけども。
でも、まあ、今言うんだったら、このタイミングで言うんだったら・・・。
やっぱり、去年の11月中旬から12月の中旬までずうっと日本に滞在なさってた、あの方ですよ。あの・・・エリックですね!
A ええ、これだけビザをフル活用する人もいないんじゃないかと(笑)。
M(笑)。
いやあ、原宿あたりよく歩いているらしいですからね。
A なんか、温泉地行くとやたらギターの上手い外人さんがよく泊りに来てる・・・みたいな話とか。いろいろ聞きますけどね。
M そうですか(笑)。エリック・クラプトンという人の立ち位置っていうか、立ち姿っていうかね。
僕ら68年ぐらいのCreamからずっと見てきてるわけですね。で、初来日の74年も僕も見ましたし。
まあ、よくあの人はこう・・その時代その時代に合わせて自分というものを変化させる人だっていうね。かっこいいですよね!
A 時代と共に変化させるっておっしゃいましたけども・・・。
M それで、やっぱり去年のツアーっての僕は3回見に行ったんですけども、あのギタリストが若手を2人入れて、、、
3人いるんですよ、ステージ上にね。
その若手2人ってのが、これが、そんなに上手くなくていいだろう!ぐらい上手いんです。
だけど、そのデレク・トラックスというオールマンブラザースバンドのギターが入ったんですけども、
その彼にまず弾かせておいて、後でそれにチャレンジしていくような弾き方をね、エリック・クラプトンやるわけですよ。
あの歳になって。それがね・・・見事でしたよ。だから、もう、エリック・クラプトンは60幾つになると思うんですね。
にもかかわらず、、ああいうチャレンジ精神というのを持ち続けている。すごく若いんじゃないかと思うんですね。
A 斎藤誠さんは、そういうエリック・クラプトンのトリビュートアルバム「アコギでクラプトン」にも参加をされているんですけども。
M そうです、そうです。もうすぐ出るんですけども。
これは、日本の色んなギタリストが、アコースティックギターでエリック・クラプトンの曲をカバーしようというコンピレーションで。
僕はその中で2曲・・・「Change the world」と「Presence of the Lord」という曲、2曲やらさせていただいています。
==パート3==
A あの、クラプトンてまたアコギも上手いですよね。
M そうですねー。この間のツアーのときも、一人っきりでやるんですけども、「Drifting Blues」とかね。
めちゃめちゃ上手いですよ。あの人、すっごい勉強してるみたい。ルーツロックを、ルーツのブルースを。
ロバート・ジョンソンとかね。素晴らしいですね。
A そっかあ。そのエリック・クラプトンという人が如何にすごいかってことをですね、
今、目の前にいる斎藤誠さんが尊敬してやまないってのが何よりの証明だなって。
M そうそう。僕を通して皆さん知って下さい(笑)。
A(笑)はい、さて色々とお話を伺っていますけども。
M はい。
A「F」っていうのに躓いた、たとえば今この番組を聴いている方がいたらですね、何かアドバイスっての、ありますでしょうか。
M もう簡単ですよ!「F」がない曲を弾け!と(笑)。いっぱいありますよ、そんな曲!
EmとA7だけでずっと弾ける曲あるし、ニール・ヤングだっていっぱいあるし・・・。
そのうち、もうそうはいかない。やっぱり弾かなきゃ!ってなってくるんですよ。「F」をね。
だから、最初のうちはじゃあ「F」のない曲をいっぱい選んで、自分の好きな曲をいっぱい弾けばいいじゃないですか!
そのうちに、やっぱり必要だってなったときに、少しずつ・・・でもね、たぶん、色んなことをやった後だと弾けるようになってると思いますよ。そういう気がします。
A なるほど。長所を伸ばしながら・・・。
M そうですそうです。
A ちょっとずつ短所も補ってくという・・・。
M そういうことそういうこと!
A 斎藤誠さんが今まで練習してきた・・・どういう練習をするんですか?
スケール練習だったりとか、あるじゃないですか。
M いや、やんないやんないやんない。全然やったことないです。
僕は、えっと子供の頃テレビでね「ギター教室」・・・っていうテレビ番組があったんですよ。
A ほぅ。
M 30分間の番組で。それをうちの兄貴が、譜面を買って見ていて・・・テレビを見ながら習っていて。
それを僕は兄貴の方の後ろ・・・肩越しにテレビを見ていたんですよ。要するに、僕は譜面を一切見ないでそれを覚えてたっていう・・・。
そういう始まり方があったもんですから、未だに僕は譜面弱いんですけども、
なんか人に習ったっていうのは1回もなくて。それからスケール練習みたいなことも、全然してなくて。
むしろ僕なんかは、例えばウチで・・・なんでしょう、パソコンなんかやって、インターネットなんか繋いでいるときに、
ずっと足の上に、膝の上に、ギター乗っかってるんですけど・・・もうそれ、四六時中ですね。
なんかないと、心配になってくるみたいなね。
A へえ、じゃあもう結構肌身離さず・・・。
M あ、そうです。カラダの一部だと思いますね。
なんかこのギターってのが・・・そろそろ喋るの終わんないといけないんですけども・・・。
この後ね、僕が死んだ後もこのギター残ると思うんですよ。そうすると、誰かに渡るわけじゃないですか。
で・・・その次の人が僕が弾いているところだけ・・・弾いてたところだけフレットが削れてたりなんかすると、
「お、前のオーナーはロック好きだったんだな」、とかね、「フュージョン好きだったんだな」とか
・・・そういうなんかね、一大ロマンを感じるんですよね。
まだまだこいつは色んな人と出会って、ま、ここにMakoto Saitoって書いちゃってるギターですけども・・・
でもまあ、そういうのを考えると・・もうそんなちょっとやそっとの付き合いじゃないなと。うん、壮大なロマンを感じます。
M なるほど。
A あの、斎藤誠さん、こないだ「バラードベスト」をリリースされてましたけども・・・。
M ・・・ええ、ちょっと前ですけどもね。
A 今日は最後に「バラードペスト」から1曲聴いてお別れしたいと思いますけども。
M はい、これは間奏は残念ながら僕が弾いてるんではなく・・・
僕の大学の先輩で・・・みんな、知らないかなあ・・・桑田佳祐さんてヒトがですね、、、
A あー、ちょっと存じ上げない感じですけどね。
M ねー。あんまり知らないですよね(笑)。
うん、まあホントは知ってます・・・知ってますけども!
A 知ってます!!
M スライドギター・・・実は桑田さん、こんなにスライドギターが上手いんだっていうところも
併せて是非聴いていただきたいんですけども。斎藤誠で「今僕を泣かせて」という曲です。
A この時間は斎藤誠さんにお越しいただきました。ありがとうございました!
M ありがとうございました!
***********
※誠さんのニッキによると、どうやら非常に体調がよくなかった時に(06年12月中旬)収録が行われたということなのですが、
ご自身でも書いていらっしゃるように「言われなければ」全く気がつかなかったと思います。
とても、丁寧にお話されている印象があります。
とりあえず「F」のない曲を弾け!
これ、ギター以外に置き換えても通用するようなフレーズに思えてならないのですが。
インタビュアーは鮎貝健さん。(Aで表記しています。)
2007年1月にオンエアされたもので、30分間が誠さんの登場された時間のようです。
==パート1==
M どうもこんばんは!
A 初めまして!
M どうぞよろしくお願いいたします!
A さあ、今日はギターの方も持ってきていただきまして。ありがとうございます!
M あっ、こんなところにギターがっ!!
A (笑)・・素敵な小芝居も入れていただいてありがとうございます。
斎藤誠さんは、1958年の1月3日生まれということなんですけれども・・・ついこないだ、じゃあお誕生日だったんですね!
M はい、もう誕生日嬉しい!とかいう歳じゃないですけども。
A おめでとうございます!
M ハイ、いい歳になりました!
A 実際そうすると、何年くらいのギターとの付き合いになるんでしょうね?
M ・・・42,3年?小学校に入ったら、何となくウチにあったんですよ。
うちの兄貴が、何か知らないけどギターを弾いていて、ベンチャーズなんつって(・・・と、ここでアコギではあるけれど、少しテケテケを披露下さる)
A でも、エレキで。
M かっこいいなあ、あれなんだろうな?っていって。追いつこうと思ったんですけども、何やっても兄貴の方が強くて。
喧嘩やっても、ギター弾いてもね、絵を描いても。だから、最初僕は兄貴のコピーから始まったんですね。
A いくつくらい違うんですか?
M 4つです。
A ああ、それくらい違うと結構・・・・、
M うんうんうん。
A なかなか追いつけないですよね。
M でも、ひとつ何かこう目標があったから、わかりやすかったんですよ。
A それでギターを始めるキッカケになって。
やっぱりそれじゃあ、そしたらその当時はベンチャーズ?
M 僕は、唄が好きでビートルズだったんですよ。
A ほーー。
M で、ビートルズがもうすぐ来日するとかいう時だったんですね。
それで、子供で普通ビートルズ聴いてるヤツはいないんですけど。
大体、サッカーか野球なんですけども、僕はそっとビートルズをヘッドフォンで聴いて。
一応、あのぅ、野球もやってたんですけど、野球・・・放課後呼びに来ると、ヘッドフォンして居留守を使ったりとかしてましたね。
A ほおー。
M 「オブラディ・オブラダ」とか聴きながら。
A へえー。居留守ですか(笑)。小学校の時から・・・。
M おふくろに怒られましたけどね、「外に行って体動かしてきなさい」なんてね。
A その時に描いていた夢というのは?もう具体的に、自分がステージに立つことまで描いてたんですか?
M そんなこと、ぜんっぜんなかったですね。
大体、自分がたとえばこうやって音楽やって飯食っていこう、っていうふうに思ったのは、ずっと先で大学4年の時なんですよ。
文化祭とか、お別れ会とか・・・そういうときの、必ずいなきゃいけないような人間だったんですよ。
そういうとこで「賑やかし」として。だからまあとにかく、ギターが1本僕の傍らにあったということで・・・目立てたっていうかね。
あの・・・今言いませんけど、ベルボトムのジーンズなんてものをね、3本くらい買ってきて、それでパッチワークみたいにするんですよ。
それで1本を作り上げるんですよ、自分の足の太さにぴったり合った・・・そんなにぴったり合わなくてもいいだろうぐらいの。すっごいきつきつのやつをね。
そんなことやって、「これがロックだ!」なんてね。
A 手作りなんですか、そういうのは?
M ま、母親に作ってもらうわけですよ。「ここはこの色にしてくれよ」とか言ってね。
A 結構僕はメタル系で、スパッツ買ってきて・・・鋲を打ったりとかしてね、、
M(笑)・・・時代が違うだけで、おんなじ発想だと思います。
A そこまでぴったりじゃなくてもいいだろう!みたいな。で、なぜかレッグウォーマーみたいな。
M あ、80年代だ!そうですね!
A ま、そんな僕の思い出はさておきですね(笑)ちょっとそんなことを思い出してしまったんですけども。
そんな斎藤誠さんのギターアイドルというのは、ズバリ?
M マウンテンというね、グループがいたんですよ。
A マウンテン!!
M その当時はクリームの弟的バンドなんて言われてたんですけども、でもね。ルックスは全く違って。
あのギターの人が、ものすごくデカいんです。あのプロレスのアンドレ・ザ・ジャイアントにクリソツなんですけども。
A えーっ(笑)。
M ものすごい、デカいんですよ!
その人はわざわざ、レスポールジュニアというのを使うんですけども。そうするとウクレレを持っているみたいに見える・・・ぐらいカラダがデカい。
ところがその人のトーンてのが、ものすごい綺麗でね。
僕はその当時ハードロックって言ってましたけどもね。ハードロックの入口がマウンテンでしたね。
A ものすごい綺麗だったというのは?
M あのね、なんだろ。たとえば1つの音を(ギターを実際に弾いて下さる)伸ばすときに・・・ピッキングハーモニクスっていう・・・
A はいはい、倍音を出す、、、
M これが左の手首がモーターついてるんじゃないかくらいに(アコギにも関わらずやって下さる)伸びるんですよ、どこまでも。
「これだと!」
意外とそんなふうに言ってたわりには、イギリスにも好きなバンドが出来て「ユーライアヒープ」という。
A ユーライアヒープ!!なるほどー!
今の斎藤誠さんの音楽を聴いていると、確かに・・・。
でも、中には「なるほどー」ていうね、空気ですよ、空気が!「ユーライア」で「ヒープ」な空気が・・・。
M どうしよもないです。好きなものはしょうがないって感じですね。
だから僕は、あんまり自分でロックのカバーはそんなにしないんですけども、
その今言った「マウンテン」と「ユーライアヒープ」のカバーは普通にやってるんですよ。自分のアルバムで・・・。
==パート2==
A お話していただく中で、学園祭とかではステージに立ったりとか、お別れ会には必要不可欠な人物だったということなんですけども・・・
M (笑)・・・ずいぶんショボいネタですよね、それ。
A ギターと向き合うのが喜びだったというような印象を・・・、
M そうですね、お友達でしたね、ずっとね。
A そんな斎藤誠さんが、青山学院大学の在学中に書いた曲がクラリオンのCMソングに選ばれて・・・
M あ、そうですね、、わりとキッカケなんですよ。音楽の世界に入ったというのは。
ウチの大学の先輩に・・・皆さんあまり知らないと思いますけどね・・・サザンオールスターズというバンドが・・・
A あ、聞いたことあります!
M(笑)そうそうそうそう、どうも!乗っかってくれてありがとうございます!
そのサザンオールスターズがデビューする時にね、僕らがこぞって応援をしたんですよね、、ようするに。
その当時のサザンオールスターズってのが、客が4人ぐらいしかいなかったんですよ。
A ほうほうほうほう!
M 僕と、僕の友達と・・・・。
A ずいぶんマイナーなバンドですね!
M 超マイナーでしたよ!
渋谷の「屋根裏」とかね、「ロフト」とかでやったんですけども。
だけど、まあ、それがある日・・・あれよあれよという存在になっていってしまうんですね。
で、じゃあ僕はずっとサラリーマンになるとか思ってたけども、大学4年になって、なんか音楽もやってみるべきなのかなあってぼんやりしてた時に、
桑田さんがプロデュースした西慎嗣くんていうね、ギタリストのアルバムに「1曲おまえの曲を使わせてくれねえか」と・・・電話がかかってきて、桑田さんから。
「え、何の曲ですか?」って言ったら、タイトルは「Don't worry mama」って曲なんですけども、僕が大学時代に作った曲なんですけども。
それがクラリオンのCMソングになったんですね。それがきっかけですね。
A なるほど。桑田さんから電話がかかってきた段階でもう十分すごいですけどね。
M まあ、腐れ縁ですからねえ。
A でも、やっぱこう時代の中でそういう出会うべくして出会った人たちと一緒に・・・流れがきっとあったんでしょうね。
M あったと思いますね。たぶん、だから僕ほっといたら銀行員になってたと思うんですよ。
うちの親父が銀行員だったんです!だから、ああいうふうになりたいな、ネクタイとか毎朝きちんとして6時半くらいに出てくような生活てね、憧れがあったんです。
A わかります!
M あ、わかります?
A 僕もやっぱりそういうの描いてましたからね。
M でもね、僕はそれを大学卒業する頃に色んな人に言ったら「お前にそんなこと出来るわけないだろ!」って、色んな人に言われたんですよ。
「音楽やめるなんて、10年早い!」みたいなことを桑田さんに言われたりとか。
だんだんそのあたりでスライドして、音楽人間になっていくんでしょうね。
A なるほど(笑)まあ、人生設計が崩れたときに・・・
M ・・・崩れました。
A 人間は、ロックに走るっていう習性が・・・。
M (笑)あー、そうか。
A そんな誠さんなんですけども、まあ色々とお仕事をされてく中で、プロフィールを見ると、
休業期間てのが1991年・・・・にあるんですけども、この期間というのは、どんな期間だったんですか?
M えっと、皆さんもうちょっと記憶の外に外れちゃってるかもしれませんけども、このときはバブルが弾けた頃なんですよ。
だから、それまで着飾ってたヤツがちょっと待てと。お財布の中身を見てみろ!ってみんなが自分の心をね、もう一回見つめ直した頃だと思うんですね。
僕もたまたまその時に、当時いたレコード会社の契約が切れたって時があって。
で、さあ、じゃあ自分の唄以外に、自分のギター以外に何をしようかっていうふうに思った時に、
人のプロデュースとかね、人のレコーディングを・・・スタジオミュージシャンというほどでもないですけど、ギター弾きとして参加したりとか、、、
要するに周りを見るような期間が、この91年から96年まで、5年間以上あって。
これはね、僕にとっては当時は窮地に追い込まれたと思ってましたけどもね、
今考えてみるとね、色んな世界を見れて、色んな人の音楽を聴けて、それに参加出来て。自分形成のためには、すごくよかったと思うんですよね。
A 一歩ひいた目で、逆に客観的にその当時の音楽シーンをご覧になってた期間だと思うんですけど、その頃ご覧になって・・・あと、今たとえばシーンをご覧になって何かこう・・思われることってあります?
M んー。難しい質問ですけども、よくなってきたと思うんです、僕は。91年くらいから。
それまでは、やっぱりあの・・・「四角い音楽」がすごく多くて。
A 四角い音楽?
M 打ち込み中心のクリックのままいく音楽が多くて。
やっぱり90年代アタマあたりから、ループが増えることによって、その元々誰かがドラムを叩いていたものをループして、
それに唄を乗っけるとかいう音楽制作が増えてきたと思うんですよ。そうなってからの方がとっても音楽的になったと思うんですね。
やっぱ80年代中盤戦以降、ちょっと・・・ええと機械に負けてたみたいなね、ミュージシャン。機械に負けてたみたいな時期があったんじゃないかなと・・・。
それが今、機械とすごく共存してる・・・それが90年代前半以降よくなったんじゃないかと思います。
A ちょっと質問を変えましてですね、、
今度・・・斎藤誠さんがですね、すごいな!と思えるギタリストというのは、どんな方なんでしょうね。
M これ、もういっぱいいますけども。
でも、まあ、今言うんだったら、このタイミングで言うんだったら・・・。
やっぱり、去年の11月中旬から12月の中旬までずうっと日本に滞在なさってた、あの方ですよ。あの・・・エリックですね!
A ええ、これだけビザをフル活用する人もいないんじゃないかと(笑)。
M(笑)。
いやあ、原宿あたりよく歩いているらしいですからね。
A なんか、温泉地行くとやたらギターの上手い外人さんがよく泊りに来てる・・・みたいな話とか。いろいろ聞きますけどね。
M そうですか(笑)。エリック・クラプトンという人の立ち位置っていうか、立ち姿っていうかね。
僕ら68年ぐらいのCreamからずっと見てきてるわけですね。で、初来日の74年も僕も見ましたし。
まあ、よくあの人はこう・・その時代その時代に合わせて自分というものを変化させる人だっていうね。かっこいいですよね!
A 時代と共に変化させるっておっしゃいましたけども・・・。
M それで、やっぱり去年のツアーっての僕は3回見に行ったんですけども、あのギタリストが若手を2人入れて、、、
3人いるんですよ、ステージ上にね。
その若手2人ってのが、これが、そんなに上手くなくていいだろう!ぐらい上手いんです。
だけど、そのデレク・トラックスというオールマンブラザースバンドのギターが入ったんですけども、
その彼にまず弾かせておいて、後でそれにチャレンジしていくような弾き方をね、エリック・クラプトンやるわけですよ。
あの歳になって。それがね・・・見事でしたよ。だから、もう、エリック・クラプトンは60幾つになると思うんですね。
にもかかわらず、、ああいうチャレンジ精神というのを持ち続けている。すごく若いんじゃないかと思うんですね。
A 斎藤誠さんは、そういうエリック・クラプトンのトリビュートアルバム「アコギでクラプトン」にも参加をされているんですけども。
M そうです、そうです。もうすぐ出るんですけども。
これは、日本の色んなギタリストが、アコースティックギターでエリック・クラプトンの曲をカバーしようというコンピレーションで。
僕はその中で2曲・・・「Change the world」と「Presence of the Lord」という曲、2曲やらさせていただいています。
==パート3==
A あの、クラプトンてまたアコギも上手いですよね。
M そうですねー。この間のツアーのときも、一人っきりでやるんですけども、「Drifting Blues」とかね。
めちゃめちゃ上手いですよ。あの人、すっごい勉強してるみたい。ルーツロックを、ルーツのブルースを。
ロバート・ジョンソンとかね。素晴らしいですね。
A そっかあ。そのエリック・クラプトンという人が如何にすごいかってことをですね、
今、目の前にいる斎藤誠さんが尊敬してやまないってのが何よりの証明だなって。
M そうそう。僕を通して皆さん知って下さい(笑)。
A(笑)はい、さて色々とお話を伺っていますけども。
M はい。
A「F」っていうのに躓いた、たとえば今この番組を聴いている方がいたらですね、何かアドバイスっての、ありますでしょうか。
M もう簡単ですよ!「F」がない曲を弾け!と(笑)。いっぱいありますよ、そんな曲!
EmとA7だけでずっと弾ける曲あるし、ニール・ヤングだっていっぱいあるし・・・。
そのうち、もうそうはいかない。やっぱり弾かなきゃ!ってなってくるんですよ。「F」をね。
だから、最初のうちはじゃあ「F」のない曲をいっぱい選んで、自分の好きな曲をいっぱい弾けばいいじゃないですか!
そのうちに、やっぱり必要だってなったときに、少しずつ・・・でもね、たぶん、色んなことをやった後だと弾けるようになってると思いますよ。そういう気がします。
A なるほど。長所を伸ばしながら・・・。
M そうですそうです。
A ちょっとずつ短所も補ってくという・・・。
M そういうことそういうこと!
A 斎藤誠さんが今まで練習してきた・・・どういう練習をするんですか?
スケール練習だったりとか、あるじゃないですか。
M いや、やんないやんないやんない。全然やったことないです。
僕は、えっと子供の頃テレビでね「ギター教室」・・・っていうテレビ番組があったんですよ。
A ほぅ。
M 30分間の番組で。それをうちの兄貴が、譜面を買って見ていて・・・テレビを見ながら習っていて。
それを僕は兄貴の方の後ろ・・・肩越しにテレビを見ていたんですよ。要するに、僕は譜面を一切見ないでそれを覚えてたっていう・・・。
そういう始まり方があったもんですから、未だに僕は譜面弱いんですけども、
なんか人に習ったっていうのは1回もなくて。それからスケール練習みたいなことも、全然してなくて。
むしろ僕なんかは、例えばウチで・・・なんでしょう、パソコンなんかやって、インターネットなんか繋いでいるときに、
ずっと足の上に、膝の上に、ギター乗っかってるんですけど・・・もうそれ、四六時中ですね。
なんかないと、心配になってくるみたいなね。
A へえ、じゃあもう結構肌身離さず・・・。
M あ、そうです。カラダの一部だと思いますね。
なんかこのギターってのが・・・そろそろ喋るの終わんないといけないんですけども・・・。
この後ね、僕が死んだ後もこのギター残ると思うんですよ。そうすると、誰かに渡るわけじゃないですか。
で・・・その次の人が僕が弾いているところだけ・・・弾いてたところだけフレットが削れてたりなんかすると、
「お、前のオーナーはロック好きだったんだな」、とかね、「フュージョン好きだったんだな」とか
・・・そういうなんかね、一大ロマンを感じるんですよね。
まだまだこいつは色んな人と出会って、ま、ここにMakoto Saitoって書いちゃってるギターですけども・・・
でもまあ、そういうのを考えると・・もうそんなちょっとやそっとの付き合いじゃないなと。うん、壮大なロマンを感じます。
M なるほど。
A あの、斎藤誠さん、こないだ「バラードベスト」をリリースされてましたけども・・・。
M ・・・ええ、ちょっと前ですけどもね。
A 今日は最後に「バラードペスト」から1曲聴いてお別れしたいと思いますけども。
M はい、これは間奏は残念ながら僕が弾いてるんではなく・・・
僕の大学の先輩で・・・みんな、知らないかなあ・・・桑田佳祐さんてヒトがですね、、、
A あー、ちょっと存じ上げない感じですけどね。
M ねー。あんまり知らないですよね(笑)。
うん、まあホントは知ってます・・・知ってますけども!
A 知ってます!!
M スライドギター・・・実は桑田さん、こんなにスライドギターが上手いんだっていうところも
併せて是非聴いていただきたいんですけども。斎藤誠で「今僕を泣かせて」という曲です。
A この時間は斎藤誠さんにお越しいただきました。ありがとうございました!
M ありがとうございました!
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※誠さんのニッキによると、どうやら非常に体調がよくなかった時に(06年12月中旬)収録が行われたということなのですが、
ご自身でも書いていらっしゃるように「言われなければ」全く気がつかなかったと思います。
とても、丁寧にお話されている印象があります。
とりあえず「F」のない曲を弾け!
これ、ギター以外に置き換えても通用するようなフレーズに思えてならないのですが。