宮応かつゆきの日本改革ブログ

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日ロ領土交渉の原点に、「樺太・千島交換条約」(1875年)を据えることが国民的大義(4)

2018年12月11日 | 千島返還問題と日本共産党

 「読売」紙が11月28日、1頁全面をつかって、「基礎からわかる日露領土交渉」の記事を掲載しました。 この記事を読んでいくつかの疑問を感じていました。 記事の全体は、「4島返還論」の「根拠」「正当性」を裏付けようとする意図のもとに書かれているように受け止めています。

 その「意図」が最も分かり易く現れているのが、「北方領土とは」「日本降伏後 ソ連が不法占拠」ではないかと思います。 この項の中では、「1855年に江戸幕府とロシアが結んだ日露通好条約で、択捉島とその北のウルップ島の間に国境があることを確認してから、両国は北方4島は日本領との合意を保ってきた」と書いています。

 この条約締結から、20年後の1875年明治政府は、「樺太・千島交換条約」を締結してることは、歴史上の常識ですが、同記事では、全く触れられていません。 この条約は、榎本武揚が全権としてペテルブルグ(ロシアの首都)で結ばれたものです。 その内容は、次のとおりです。

 (1)樺太全島を今後ロシア領とすること、(2)これまでロシア領だったクりル群島、すなわち、第1島のシュムシュ島から第18島のウルップ島までを日本にゆずり、以後は「クリル全島」が日本に属することを、定めました。

 また、同記事は、「第2次世界大戦終戦直前の1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破って対日参戦。 日本が降伏後の同28日から9月5日にかけて4島に侵攻して占領」と書いています。 このことは、歴史的事実であり、ソ連の不法な行為であることを指摘してるこは理解できますが、ソ連がなぜこのような侵略行為を行ったのか、その重大な誤りの根源である米英ソ3国による「ヤルタ秘密協定」が全く隠されてしまっています。

 不破氏が、「千島問題と平和条約」のなかで指摘している次のことは、現在にも十分通じる根拠もったものではないかと考えています。 

 「日本とロシアが国家的接触を開始した最初の20年間に、ともかく平和的な話し合いで最終的にきめられた国境がこの1875年条約であり、その結論が、千島列島全体を日本領とし樺太はロシア領とするということだったのです」

 「ですから、日本の国民が、日本の歴史的な領土を回復するという立場から領土問題をとらえる場合、どこに原点をおくべきか、どの条約に依拠すべきかいえば、これは中間的な1855年条約ではなく、最終的に両国間の国境を画定した樺太・千島交換条約の到達点をえらぶべきだし、これが国民的な要求の基礎づけとなることは、自明だと思います」(同書 27頁~28頁)


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