i氏の海外生活体験記

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「飢餓海峡」と湯野川温泉

2014-06-14 23:30:38 | しもきた
6/11朝日新聞WEBで伝えておりました。

-下北をさまよう大男 「飢餓海峡」-

 先日、作家の川本三郎さんの本を読んでいて、思わず、これだ、と叫んでしまった。

 かつてムトウハップという入浴剤があり、湯に入れると白濁し、湯に入っている人の体が見えなくなるので、映画の世界で女性の入浴シーンによく使われた。女優岡田茉莉子さんから聞いた話だという。(川本三郎『そして、人生はつづく』)

 その数日前、青森・下北半島で、映画「飢餓海峡」の取材を終えて帰ったばかりだった。ロケ地を歩き、1964年秋の撮影を知る古老に話を聞いた。

 下北の山奥の湯野川温泉で、ヒロイン杉戸八重(左幸子)が父親(加藤嘉)と共同浴場につかりながら、東京に行く決意を話すシーンがある。上から風呂場を見下ろすカメラは、白濁した湯から、顔だけ出して話す二人を映す。

 実は湯野川の湯は、さっぱりした透明の温泉だ。「壁のむこうで、風呂に流れこむ湯に、せっけんみたいなのを溶いて湯を濁らせたのは、わしよ」。湯野川温泉近くで畑仕事をしていた川野豊さん(79)は、当時をなつかしんで話してくれた。溶剤はロケ隊から渡されたというから、ムトウハップだろう。

 むつ市川内町の三国良市さん(83)にも、いい思い出がある。当時、川内森林鉄道の機関士で、左らを乗せたロケ列車を運転した。運転席にやってきた左は、両切りピースを一口吸って、どうぞと隣の三国さんに渡した。「真っ赤な口紅がついたたばこ。ドギマギしたよ」

 撮影があった60年代、青森の津軽・下北では、森林鉄道が山奥深く、縦横に走っていた。高級材になるヒバが、うっそうと山を覆い、その搬出のためだった。山の住民は森林鉄道に便乗して、河口にある町に出た。

 森林鉄道は映画で重要な役割を持った。北海道で殺人事件に関係し、津軽海峡を小舟でわたってきた大男の犬飼多吉(三国連太郎)は、断崖が続く仏ケ浦に上陸、地蔵和讃(わさん)をバックに恐山の賽(さい)の河原をさまよったあげく、森林鉄道に乗り込み、そこで八重と出会うのだ。

 その川内森林鉄道は70年に廃線。林業は衰退し、かつて1万近くあった川内町の人口は半減した。町自体も平成の大合併で隣接するむつ市に編入され、地元特産のヒバ材をふんだんに使った自慢の町役場は、むつ市川内庁舎になった。町を歩いても人通りがなく、開いている店は数えるほど。「飢餓海峡」ロケのころは、貧しかったけど、活気があった、というのが町の人の共通の思いだ。

 4年前、川内町で「飢餓海峡」を語る集いが開かれた。半世紀近く前の映画は、いまも「町の宝」なのだ。語り継いで、町の活性化につなげたい、という思いからだった。

 「この映画は時々、テレビで再放送があり、先日(4月中旬)もBSでやっていました。なんとかこれで町おこしができないか。川内が全国に発信できるのは、ほかにはないので」と、会を呼びかけた一人の加藤方也(まさなり)さん(70)は話す。近いうち、同様の催しをもう一度、開きたいという。

 下北の人にとって「宝」である「飢餓海峡」は、巨匠・内田吐夢(とむ)監督の代表作だ。

-引用終わり-

私の実家にも「飢餓海峡 ロケにて 伴淳三郎」という色紙が飾ってあります。当時のことは知る由もありませんが、湯野川温泉には出演者の資料が今も飾ってあったと思います。

上の記事では「かつて1万人近くあった・・・」とありますが、鉱山が栄えた大正時代は1万5千人も居たようですね。

さて、町おこしを語っているところで「川内が全国に発信できるのは、ほかにはないので」というくだりがあります。

確かにそうなんでしょうが、私もちょっと考えてみましょう。

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