年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<25>水天宮

2010-06-18 | フォトエッセイ&短歌
 人形町界隈の賑わいをもたらしているのが「子供の守護神・安産の神様」で親しまれる、日本橋蛎殻町の東京水天宮である。休日・祝日ともなれば年間を通して狭い境内は参詣客でごった返す。
 江戸時代、久留米藩(くるめはん:福岡県久留米市)有馬家二十一万石の屋敷にあった水天宮が江戸っ子たちの間で安産の願いを叶えると評判がたち、塀越しにお賽銭を投げ入れる庶民が後を絶たなかった。そこで毎月5の日に限って庶民のため門戸を開放したという。
 有馬様は「情けが深い」と更に評判となり「情けありまの水天宮」との洒落た言い回しが広まり、「恐れ入谷の鬼子母神」と共に江戸の二大流行語となったんだと。

<大名家の屋敷にあった水天宮がなぜ江戸っ子の安産の神様になったの?>

 水天宮の由来によると歴史は古いだけでなく、何かよく解らない事がいっぱいある。安徳天皇・建礼門院を祭神としている。安徳天皇といえば平家一門の象徴で壇ノ浦の合戦で源氏の軍船に取り囲まれ、祖母に抱かれ、母の建礼門院と共に波間に身を沈めるという平家物語の涙の部分である。
 戦後、建礼門院の官女:按察使局(あぜちのつぼね)が筑後川に逃れ、小さな祠(ほこら)を建てて安徳天皇とその一族の霊を慰めた。彼女は尼となって里人に請われ加持祈祷を行ったが、その願い事がよく当たり、尼御前(あまごぜん)と称えられ、祠も尼御前神社と呼ばれるようになった。これが水天宮の起原であるという。

<東京の中心地、ビルに囲まれた2階造りの水天宮は鎮守の杜などはない>

 ここまで来たので、その後についてもう少し。子供の守護神、安産の神様のみならず、農業、漁業、航海者の間で信仰され、さらに病難、火災などの除災招福のご利益をもって聞こえるようになった。
 有馬忠頼(ありま ただより)は久留米に豪壮な社殿を造営したが、参勤交代で江戸詰め中は水天宮にお参りできない。ために第9代頼徳(ありま よりのり)は江戸は赤羽根の久留米藩有馬家屋敷に水天宮を祀った。明治4年、青山の中屋敷に移り、翌明治5年、有馬家屋敷のあった現在の日本橋蠣殻町に移転して今日に至っている。

<壇ノ浦の戦いから今年は825年、筑後の小さな祠は日本橋で頑張っている>