年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

多摩:頼朝没

2009-07-21 | フォトエッセイ&短歌
 稲毛三郎重成の妻は頼朝の正室、後に尼将軍と言われた北条政子の妹、綾子である。従って将軍:頼朝と重成は義兄弟の関係であった。勿論、政略結婚である。平氏を滅ぼし幕府創設の不安定な時期とはいえ、妻の妹を嫁し確かな同盟軍にせざるを得ない程の武将であったのだろうか。鎌倉を守る軍事的な拠点であったという指摘もある。写真は城址あと碑である。

<「馬場あとも やかたあとも 秋の風」伊藤葦天の句碑が武将の夢を留める>

 多摩川を挟んで重要な軍事上の地域である事は当時の城の配置からもうかがう事ができる。枡形城を中に小沢城・有馬城・井田城など多摩丘陵上に並べて鎌倉街道の押さえとなっている。
 枡形城は海抜90mの周囲を一望する山城である。太平洋戦争時には高射砲陣地(探照灯)が築かれ陸軍の兵士がたて籠もった所でもある。

<枡形城は多摩川河畔にのぞむ四方断崖絶壁の要地に築かれた山城である>

 盛者必衰の理という。頼朝の没後、尼将軍政子は父、北条時政と計らって頼家・実朝を謀殺し源氏は3代で滅亡した。北条一族による頼朝の有力御家人の粛正による政権奪取である。
 二代目将軍:頼家の後見人である畠山重忠を従兄弟の稲毛三郎重成に「鎌倉の一大事、馳せ参じよ」と呼び出させ、万騎が原で滅ぼした。1205(元久2)年の事である。時政は三郎重成を従兄弟をあざむいた裏切り者として経師ケ原で殺させたという。
 こうして、稲毛三郎重成は頼朝の死後、6年足らずで北条氏の謀略に引っかかり一族はあっさりと滅亡する。

<枡形城址下の日本民家園正門の菖蒲園。三郎重成の無念が揺れている>