年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

多摩:重成像

2009-07-11 | フォトエッセイ&短歌
 稲毛三郎重成は広福寺を居館としたとされるだけにそれにまつわる多くの遺物が残されている。重成夫妻の墓、一族の位牌、桃山期の重成の木造などであるが、「伝」という事で確証はない。
 近くの菅の薬師堂は重成の寄進によって建立されたという記録ものこり、「稲毛の7本松」の伝説には武将としての重成の片鱗が伺える。
 しかし、確証がなく「伝」で留まっているのは、重成の非業の最期に関係しているのかもしれない。

<山腹の広福寺山門。観音堂の重成像は衣冠束帯の姿で太刀を佩ている>
 
 稲毛三郎重成は貴族社会から武家社会へと変わる激動の一時期を駆け抜けた南関東の豪族である。源氏の棟梁:頼朝のもとで武勇を発揮し頼朝の死と共に滅亡するという劇的な生涯を送った「つわもの」である。
 源平の争乱を戦い、平氏政権を滅亡させ、頼朝による鎌倉幕府創設の有力な御家人の一人であったことは間違いない。『平家物語』には「ゐなけの三郎しけなり」と記述されている。1205年没。

<横浜市の万騎ケ原で討死。重成の屋敷跡を囲む昼なお暗い深い竹林>

 広福寺の急坂を下りると専修大学と小田急線向ケ丘遊園駅をつなぐ谷戸道にでる。絶え間なく学生たちが歩く。その正面に切り立った石段が聳える。「天神社」である。江戸名所図絵には「韋駄天社」として描かれ、稲毛三郎重成の頃の創建といわれている。
 最近では「韋駄天ばしり」の神様として思わぬ信仰を集め、マラソン選手の参詣の姿も絶えないとか。

<たしかに凄い石段、マラソン選手には格好の参詣の神社かもしれない。フ~>