年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<12>史跡勝鬨橋

2009-07-01 | フォトエッセイ&短歌
 東京湾から隅田川を上る。最初の橋が勝鬨橋(かちどきばし)である。「鬨」は常用漢字外のため、駅名・地名は「勝どき」と記す。意味は<戦いに勝った時に一斉にあげるトキの声>
 1905(明治38)年1月、日露戦争で旅順のロシア軍の陥落祝勝記念として「勝鬨の渡」が設置された。その後、渡船場は廃止されたが橋の名称として勝鬨は継承され、大陸侵略の歴史をうかがわせる。
 架橋の計画が進むが、第一次世界大戦、関東大震災などが相次ぎ、実際に工事が始まったのは1933(昭和8)年。竣功は1940年6月である。

<「東洋一の可動橋」と云われ1955年頃は年800回ほど壮快に開閉した>

 1933年と云えば満州国がでっち上げられ、国際連盟を脱退し、大陸侵略を本格化させる年である。石川島造船所を始め軍需産業の中心地でもある石川島・江東地区への交通が渡し船では様にならない。トラック交通の確保である橋は喫緊の要請であった。
 しかし当時、隅田川の船運は東京の経済動脈の一つで航行する船舶が多かった。このため陸運・水運(3千t級の船舶)を両立させるために、橋の中央部を「はねあげ」て大型船舶の通航を可能とした。跳開橋(ちょうかいきょう:はね橋)である。

<橋中央の「はね上げ部分の機械室」の下。1967年を最後に開閉は中止>

 勝鬨橋を渡った先で晴海通りと清澄通りがぶつかる。右折して清澄通りを300mほど進むと真円山東陽院(日蓮宗)がある。昭和5年に浅草から移転した古刹の雰囲気はゼロであるが、一角に十返舎一九(1765~1831)の墓があるので有名だ。
 弥次さん喜多さんを、洒落と風刺を利かせた軽妙な筆で描いた「東海道中膝栗毛」の作者である。
「この世をば、どりゃお暇に、線香の、煙とともに、灰左様なら」辞世の句も何とも洒落がきいている。天保2年没。

<線香の煙ととにハイ、サヨナラとは!最期はかくありたいものだ。享年67才>