年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

横須賀・要塞

2008-07-11 | フォトエッセイ&短歌
 ペリー提督は来航した時に勝手に「猿島」を「ペリーアイランド」と命名したという。過激な攘夷運動の最中でも、この「ペリーアイランド」の「お台場」が火を噴くことはなかった。もちろん、日清戦争・日露戦争でも砲台は使われる事はなかった。
 外圧を受ける側から外圧をかける側になった帝国陸海軍には無用と映ったのか、1923(大正12)年の関東大震災で石垣が崩れ、兵舎が埋まる被害を機に陸軍は「猿島要塞」を放棄してしまった。それはなかろう!と海軍が譲り受け近代的な要塞に衣替えさせたという。

<ザッツザッツ!軍靴の響きがコダマして来そうな地下猿島要塞の隧道>

 「猿島要塞」が現実に砲台として機能するのはそれから約20年後である。1941(昭和16)年、太平洋戦争が開始され、「鬼畜米英の攻撃」に備え、5座の高射砲陣地にリニューアルし、本土決戦が準備されたのである。勿論「猿島」は軍事機密として一般人の立ち入りは禁止され、地図からも抹殺された事もあり、高射砲陣地の詳細は定かではない。
 終戦後、高射砲など施設は爆破され、アメリカ海軍の減磁ステーションとして接収される。

<水平線から飛び立つように飛翔してくるB29の編隊を迎える高射砲陣地>

 横須賀沖は航路が狭くなる観音崎とともに帝都防衛の最終ラインとしての重要な役割を担わされた。そのための完璧な要塞化が進められた事が遺跡からもうかがわれる。幕末から現在にまでつながる優れた戦争遺跡である。明治初期のレンガ造りの居住施設、弾薬・倉庫、指令部などが残り、美しいロマネスク様式のレンガ積みを触ってみることが出来る。風化させてならない。
  
<悲惨な戦争を物語るのには不似合いな一陣の風が吹き抜けて行く>