年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

目黒界隈-紅蓮の炎

2007-10-23 | フォトエッセイ&短歌
 行人坂大円寺から発した火事をその時の年号から明和の大火と呼び、明暦の大火;『振り袖火事』、文化の大火:『車坂の大火』とあわせて江戸三大火といわれている。有名なのは明暦の大火、1657(明暦3)年である。被災面積では『行人坂の大火』が1番大きく太平洋戦争での東京大空襲、大正12年の関東大震災に次ぐものだと主張している。
 大火災などというものは自慢にも名誉にもならないと思うがそうではない。一番でないと沽券に関わるのだ。「振り袖火事」派によれば江戸城天守閣を焼失させ死者10万人を数えるもので大空襲・大震災を除けば日本史上最大のものでロンドン大火・ローマ大火と並ぶ世界の3大火災の一つだという。行人坂か!振り袖か!
 行人坂派!振り袖派!実は話題性からいう2派閥を圧倒する強敵がいる。御存知「八百屋お七」(天和の大火)である。
 井原西鶴の『好色五人女』を初め浄瑠璃・歌舞伎の定番で百花繚乱、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられたという以外には史実が見えない。
 ~本郷の八百屋の娘お七は1682(天和2)年の火事で焼け出され円乗寺で避難生活をした。その時、寺小姓の吉三郎と深い恋仲に陥る。家の再建により寺を引き払うが「吉さん恋しや・恋しや吉さん」で想いは募るばかり、もう一度火事になれば会えるかも知れないと思い放火した。~<円乗寺も吉三郎も諸説紛々である。お七は放火ではなく未遂説もある。ここまでが前説>

    <八百屋お七が火あぶりの刑で処刑された品川の鈴ケ森刑場>        
ここからが本論。
 江戸市中引廻しの上処刑されたお七に心を痛めた吉三郎は諸国を行脚、僧「西運」となって明王院(大円寺の下の現:雅叙園)に落ち着いた。「西運」は此処でお七の菩提を弔うために目黒不動と浅草観音に一万日日参の悲願をたてた。
 雅叙園の前には「お七の井戸」があり念仏行の前に此処で水垢離(みずごり)をとったという。それから27年5ヶ月後お七が成仏を成し遂げたと夢枕に立ったという。こうして「お七地蔵尊」を建立した「西運」は更に市中行脚の日々を送り行人坂の石畳や太鼓橋の石橋を架けたとされている。

<左:西運が身を清めたお七井戸。右:お七火あぶりの刑で柱を立てた石の台>
 境内の隅に「お七吉三縁起絵巻」を描いた碑が建っている。木枯らしが吹きすさぶ凍える身体にむち打って、念仏鉦を力一杯たたき、念仏を唱えながら、日参する西運の姿が流麗な筆で描いてある。

   <「お七地蔵尊」と「お七吉三縁起絵巻」を彫った根府川の自然石>


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