年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

目黒界隈-大円寺の石像

2007-10-18 | フォトエッセイ&短歌
 目黒通りの「権之助坂」は箱根駅伝の最初の難所でここら辺りで強豪校が引き離しにかかる。行人坂はその裏通りとなり、目黒の富士見茶屋から下っていくと左手に大円寺という面白い寺院がある。寺院の故事来歴は地方名士の家系図と同様に99%眉唾ものであるので詮索する事はできない。
 天台宗大円寺。江戸の初期、この辺りに巣くい住民を苦しめていた無頼の徒を放逐するため湯殿山の行人(行者)、大海法印を請い迎え大日如来堂を建立した。その甲斐あってか「不良ども一掃の功あり」という事で家康から「大円寺」の寺号を与えられたという。
 江戸に入る旅人を厳しい山坂で待ち構えて襲撃した山賊でもいたのであろうか。あるいは家康の支配を良しとしない抵抗勢力でもいたのであろうか。
 この大円寺、1772(明和9)年2月29日に放火によって焼失したが、76年後の幕末に薩摩島津藩主の菩提寺として再興された。

    <参詣客が絶えない。若いカップルが水子地蔵に黙して合掌>

 再建まで実に76年間も要した理由は、幕府によって出火の責任を問われたからである。「火事と喧嘩は江戸の華」などと云われているが、「華」ところではない。研究者によれば江戸時代を通して幕府の財政は火災による都市再建復興の為につねに「火の車」であったという。しかも、火災の最多原因は「放火」だったという。幕府は極刑をもって臨んだ。 
 大円寺の放火犯人が寺の僧侶であり、江戸市中628町を延焼させたというので寺の再建が許されなかったのだという。(多くのガイドブックは、犯人は真秀という盗人の放火説。しかし、真秀という名前や正午に火の手が上がったというから寺僧説をとりたい)。であるならば、真秀寺僧の火付けに至るまでの屈折した心理はなんであったのか。暗い眼差しが思われる。いずれにしろ逮捕・判決で2ヶ月後には処刑されている。

<石版に浮き彫りされた羅漢像で、珍しいタイプであるが石仏としては粗末なものである。石工不足か、急がせたか、財源不足か。石材の質も悪い(520体像)>

 目黒行人坂大円寺から発した火炎は春先の南西風に煽られて白金・新橋・銀座から江戸城のやぐらまでも延焼。更に神田、湯島、下谷、浅草千住に至るまで帯状に焼き尽くしてしまった。多くの死傷者が出たことが想像される。
 この大火の犠牲者供養のために、石工が50年の歳月をかけて完成したといわる石仏群(都指定文化財)が大円寺の東側の土手に並んでいる。「五百羅漢の石像あり明和9年の造立とす」という記載がみられる。
  
  <穏やかな微笑み、苦悩の頬杖、諦観の瞳、泣き顔、表情は様々である>