年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

目黒界隈-行人坂

2007-10-12 | フォトエッセイ&短歌
 江戸八百八町。江戸には多くの町があった事を示す慣用的表現だが、それは5代将軍綱吉の頃の話である。その後も江戸城下町の開発・拡大は進み「暴れん坊将軍」吉宗の時期には1600町を越え、近郊の村境と接してしまうようになる。
 そうすると何処までが江戸町域なのかが問題になってくる。何しろ徳川政治は怪物のような強大な官僚政治体制だから、社会の変貌に対応出来ない。また縦割り行政だから町奉行・寺社奉行・大番頭等の解釈が違ってトラブルでもあったのであろう。
 1818年、目付;牧助右衛門は「御府内外境筋之儀」(江戸町域は何処までなのか政府の見解を示せ)という意見書を提出している。
 官房長官(老中:阿部正精)は閣議(評定所)を開き「別紙の通りだ。相心得よ」と通達している。それによると南側は<南品川を含む目黒川辺り>となっている。つまり、目黒川までを江戸八百八町として江戸町奉行の管轄下に入れた事になる。

<コンクリートでブロックされた目黒川の淀み。太鼓橋から桜堤の上流をみる>

 目黒駅は武蔵野の丘陵上にある。西口から目黒通りを越えた辺りが<江戸名所図絵>が描く<富士見茶屋>があり、ここからの富士を「佳景なり」と絶賛している。一際高い丘陵であった事を伺わせる。実際にここから雅叙園の方向に歩くと行人坂(ぎょうにんさか)という急坂になって、足許を注意しないといけない。
 江戸の初め頃、山形県は「出羽三山」の一つ・湯殿山の行者(行人)が切り開いた坂ということから「行人坂」の名がついたとか。下って行くと右側に大円寺の山門があり、更に下っていくと雅叙園(廃寺:明王院の所在地)にぶつかる。
 この街道は江戸市中から目黒不動尊参詣の道として大変にぎわった道で「江戸っ子の日帰りハイキングコース」として親しまれていた。

<この坂を登り切れば江戸市中である。旅人や遊客の難所で無頼共の悪行の地>

 雅叙園の門から50m進むと目黒川に架かる太鼓橋にでる。浮世絵:歌川広重の「雪の太鼓橋」で構造と雰囲気を知ることが出来る。太鼓のような丸い石橋であるが、現在の太鼓橋はタダの詰まらない橋である。
 しかし、ご存じ『鬼平』の一説…<目黒村の盗人宿の宗平が、行人坂を下って太鼓橋へかかると向こうから来た老爺がに会う。二人は、太鼓橋の傍の鰻屋へ入って旧交をあたためた>。太鼓橋の鰻屋は今でも健在である。
    
<目黒川を渡ると村里になり目黒不動尊の甍がのぞく。金木犀の香が一面に漂う>