年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

終章-代官屋敷

2007-10-07 | フォトエッセイ&短歌
3代将軍:家光の頃に参勤交代・鎖国・5人組制など江戸幕藩体制が確立し、以後約3世紀に及ぶ封建体制を完成させた。その総仕上げとなったものが寛永年間(1624~1642)の領地替えである。旗本・譜代・外様の領地を変えたり減らしたりしながら徳川家の身辺を強固に固めたのである。
 この時、彦根藩は譜代でありながら更に「江戸賄料」として世田谷15ケ村を加増された。彦根藩は地元の豪族:大場市之丞を代官として取り立てた。すでに見たようにこれが世田谷代官の誕生である。この大場代官、一時期年貢引負で追放になるが、幕府滅亡までその役職を全うする。
 大場美佐は12代の当主であった大場与一景福の妻である。25才の時、中延村から嫁入りし代官夫人として大場家の家政に務め、代官所を支える賢夫人として評判の人であった。彼女の聡明さを知るものとして1860(安政7)年から45年の長きにわたって書き継がれた日記がある。


 大老:井伊直弼の「安政の大獄」は反幕急進派を激怒させその中心となっていた水戸脱藩浪士らの襲撃によって江戸城桜田門外で暗殺された。開国日本の壮大な夢を描き政治家としてこれからという早すぎた挫折である。その死さえ極秘にされた。世に云う「桜田門外の変」である。
                          

 没年46歳 笠石に「家紋の橘」を配した直弼の墓は豪徳寺にある。
 代官屋敷こだわりの理由はこれである。(安政7年3月の日記)
『三日雪ふり夕方よりヤミ。御節句例之通り祝ひ候事、九ツ頃、太子堂弁次郎以使御屋敷にて変事出来致候事申越候、夕方野良田、下もげ、小山名主三人之者御礼ニ行、帰り委細御様子相わかり夫より仕度被成御上屋敷へ御出府、…』
 三月三日、雪が降る。節句を祝った。九ツ、弁次郎が井伊家屋敷から直弼暗殺を知らせて来た…代官は直ちに武装した手兵を引き連れて井伊家屋敷に向かう。朝の襲撃事件が昼には世田谷領に伝えられ驚愕と混乱のなか領主が屋敷に向かうのである。歴史を動かした大事件を彼女の一筆がさらりと書き留めていた。  
        
 代官所の土間から裏庭に抜ける戸口。残暑の陽光の向こうに、百十数年前の春の雪がちらつき慌ただしく行き交う足音が聞こえてくるようだ。