年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

お江戸日本橋

2007-08-12 | フォトエッセイ&短歌
 ♪お江戸日本橋 七つ立ち  初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ 
  コチャ 高輪夜明けて  提灯けす コチャエ コチャエ~♪

 『お江戸日本橋』:「道中唄」というジャンルで東京の民謡(という?)。
 歌川広重の鮮やかな浮世絵「日本橋」が浮かびあがり、江戸を出立する旅たちの浮き立つような可愛らしい華やかなイメージが溢れている…がそうではない。<初のぼり>とは参勤交代で江戸詰めになっていた大名が、妻子を将軍家の人質に置いて、初めて国元(領国)に帰る事を指している。<夜明け前に足許を照らすチョウチンをかざして日本橋を発った大名一行が高輪辺りで朝を迎えチョウチンの灯を消した> 。クダラナイアダルト歌詞を含んで延々と上方まで続くのである。



 徳川家康が関八州の大名として江戸に移ったのが1590(天正18)年8月。以降、壮大な城下町の建設が始まり1603(慶長8)年に最初の日本橋が架設された。そして翌年には各街道の里程の起点とされ、いわゆる五街道(東海道・中山道・甲州道中・奥州道中・日光道中)の整備が進められていく。「日本橋何里々々の名付親」江戸時代の川柳である。一里塚や宿駅や関所を設けるなど日本の交通制度を確立したのである。ド田舎にいても江戸の方角や距離が分かるのだ。家康のスゴサは街道を造っただけではなく「道中奉行」(国土交通省)というすごい権力を持った役所をつくった事である。
 道路網を掌握する事によって、江戸に向かう大名の動向、物資の流通、飛脚による信書の流れ、庶民の騒擾などの情報を把握し、徹底的な統制を行ったのだ。こうして首根っこを押さえつける事に成功した江戸幕藩体制は黒船の恫喝まで延々と続くのである。


 初代の木橋が架けられてから400年を迎えている。以降、焼失・流失などによって度々架け替えられたが、現在のは1911年に架けられた石造(花崗岩)の二連アーチ橋で「第十九代日本橋」(国の重要文化財に指定)である。
 浮世絵では日本橋の橋桁の下を舟が行き交い、濃紺の空をバックに手の届くように富士山が描かれている。恐らくその風景は大正の頃までは変わっていなかったのではないか。激変するのが東京オリンピックを控えて直上に首都高速道路が建設された時である。日本橋は首都高に被われ空を見上げる事ができなくなった。川面は臭いを漂わせベットリと茶色く淀んでいる。歴史的街並みや環境を無視し、利便性だけを優先させた都市開発の最悪最低の見本である。首都高を地下へ通し、景観を復活させるという構想が持ち上がっているが、試算予算は5000億円超だという。