年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

かの子流転

2007-05-20 | フォトエッセイ&短歌
 <二子宿-2> 通称ニコタマ:二子玉。多摩川の二子橋(ふたごはし)の袂に二子神社がある。神社の境内に<岡本かの子の文学碑>がある。それを記念して純白の彫刻が聳えている。「誇り」と名づけられた長男:岡本太郎の作品で、<この「誇り」を亡き一平とともにかの子に捧ぐ>とある。
 よく分からなかったモダンアートであったが、かの子の生涯を重ね合わせて観ると、空に伸び上がり飛び立とうとしているが、上手く飛翔する事が出来ないエネルギーの苦悩のようなものが感じられるのだが、サテ……

 「としとしに わが悲しみは 深くして いよよ華やぐいのちなりけり」~岡本かの子の歌である。名前の割には作品の評価は高くはなく、“芸術は爆発だ~”の芸術家:岡本太郎の母と言えば納得の女流作家である。高津村の大地主大貫家の別邸で誕生したが、二子の本宅で養育母に育てられ、16歳の頃には和歌を詠い、与謝野晶子を訪ね「新詩社」の同人となる。「明星」や「スバル」から大貫可能子の名前で新体詩や和歌を発表。21歳の時の画学生:岡本一平との結婚で岡本家から放逐される。夫一平の放蕩は度を超し経済は破綻し、長女を出産する頃には神経を病み精神科に入院する。
 夫婦間の亀裂は更に深刻化し、彼女の崇拝者であった学生と夫の了解を得て同居するようになったというから、凄まじい現実を歩み始めた。その後、小説家への転身を決意し、パリ、ロンドン、ベルリンなどを巡りアメリカ経由で昭和7年に帰国する。

 かの子は大日本帝国憲法が公布された1889(明治22)年に生まれ、日独伊三国軍事同盟が調印される前年の1939(昭和14)年に亡くなっている(享年49歳)。
 日本の近代国家建設は帝国主義の確立期でもあるが、彼女もまたその激しい時代を生きた。絡みつく古い時代の足かせに苦しみながらも覚醒した自我が前へ前へと押し上げていった。その意味で彼女もまた才能を開花させるには早すぎた時代を駆け抜けた女の一人であったとも云える。
 後に宗教に救いを求め、親鸞の『歎異抄』に生きる方向性を暗示され、仏教を研究し宗教者としての最期を終わったいう。

 二子橋の下流の河川敷に多摩川をこよなく愛したという岡本かの子の歌碑が新緑の草むらに眠っている。

      多摩川の 清く冷く やはらかき 水のこころを誰に語らむ
 


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