年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

二ヶ領用水の今昔

2007-04-08 | フォトエッセイ&短歌
 多摩川河岸に沿って西北西に長々と伸びる川崎、かっては稲毛米や多摩川梨など農産物の一大産地であった。肥沃な扇状地の成せるワザで「多摩川は川崎の母なる川」である。しかし、こうなるためには500年にも渡る水との闘いが繰り広げられていた。
 多摩川は暴れ川で、かつ川底が低く農業用水としての利用が困難であった。「川を眺め、川に悩む」。タヌキオヤジ・徳川家康の着眼は鋭かった。1597(慶長2)年といえば関ヶ原の戦いの前だが、代官の小泉次太夫を起用して稲毛(いなげ)・川崎二ヶ領(にかりょう)用水の工事を開始させている。用水工事は、約14年の歳月を経て完成した。その結果、この二ヶ領用水は流域60ヶ村、2007町歩の水田を潤し、米の収獲量を増やし近世川崎地域の生産力を高めたといわれる。<街の中を流れる現在のニケ領用水>
 

 その後、多摩川からの取水口の開設・分量樋・用水路の改修を繰り返しながら二ヶ領用水は農民達の手で進化し続けてきた。しかし、日照りなどが続くと水の絶対量が不足して騒動は絶えることがない。嘆願・訴訟あるいは実力行使にと用水の記録は水騒動の記録でもある。
 1821(文政4)年の「溝口騒動」は一揆にまで発展し名主の家を打ち壊している。この水騒動はその後も絶える事なくしばしば発生した。一件が落着するのは実に昭和16年の円筒分水(えんとうぶんすい)の完成によってである。
 <噴水のように吹き出る用水の水をプールのような円筒でうけとめ、それを百分率の割合で水を公平に分けるシステム> 国登録有形文化財 二ヶ領用水久地円筒分水(にかりょうようすいくじえんとうぶんすい)


これによって水の流量や水位が変化しても「久地二子堀」「六ヶ村堀」「川崎堀」「根方堀」の4本の堀に公平な分配が出来るようになった。しかし、皮肉な事に、都市化が進み農業用水路としての役割は終わり下水道化して悪臭に悩まされる事になった。
 最近、ようやく汚染対策がなされ散策路としての整備が一部ではなされるようになった。