年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

箱根湯坂路

2007-04-22 | フォトエッセイ&短歌
 『奢れる平家は久しからず』。平家一門外は人である、と豪語した平家政権も公家化することによって各地の武士団の離反を招き、遂に1185年の「壇ノ浦の戦い」に破れ滅亡した。源平の戦いの終焉であり、武家の世の到来である。
 源氏の旗に結集した東国の武士団は棟梁である頼朝と主従関係を結び領地の支配権<御恩>を認めてもらった。その見返りとして「いざ鎌倉!」と言われるように軍事力<奉公>の提供である。頼朝は平家滅亡後も京に向かわず鎌倉で指揮を執った。幕府(戦場で最高司令官である大将がいる幕の中)を開いた。武家政権の成立である。
 とはいっても、所詮は地方政権で「すべての道はローマに通ず」るほどではないが、政権の中枢機関が鎌倉に成立したことによって朝廷のある京都や諸国からの往来は増加し、街道の整備が急がれた。
 例えば元祖・東海道は、険しい箱根山を避けて足柄峠を越えていが、鎌倉時代に入ると、幕府は京都朝廷との連絡を密にするため、距離的に短い箱根越えの街道を普請した。これが鎌倉古道と言われる湯坂路である。


 『十六夜日記』の阿仏尼が京都から鎌倉に下った際に通ったという古(いにしえ)の「湯坂路」として歴史に刻まれている。鎌倉武士の気概を思いながら新緑の古道に足を踏み入れるのもまた悪くないかもしれない。
 箱根湯本駅から国道1号を塔之沢方面に行き、早川にかかる旭橋を渡り、「北条早雲の湯」を左にすると「湯坂路(鎌倉古道)の看板である。雑木林の登山道に入る。石畳の道を進むと、やがて湯坂城跡で鎌倉に向かって続くである。

  
  
 箱根湯本駅-湯坂城跡-大平台分岐-浅間山-千条ノ滝-小涌谷駅
*江戸幕府により箱根街道が開かれると、裏街道とされて表舞台から姿を消した。今は寂として往還の面影すらない。遅い辛夷がいっぱいに咲き始めている。