年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

半世紀の光芒

2007-04-15 | フォトエッセイ&短歌
 <絹の道-2> 『泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった4はい(4隻)で夜もねられず』教科書に必ず出てくる狂歌である。1953(嘉永6)年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが開国を求めて江戸湾に入港した時の動顛ぶりを謳ったものである。 それから5年後、「日米修好通商条約」が締結されるとさっそく自由貿易が開始された。
 中心は横浜で外国商人と日本商人との間で銀貨で行われ、その最大の輸出品は生糸である。外国商人は優秀な日本の生糸を安値で買いあさった。甲信地方、北関東および多摩地域で生産された生糸が八王子周辺に集められ、八王子市鑓水の商人が仲買として活躍し「鑓水商人」の名で知られるようになる。

 その生糸を運んだ幅3尺位の街道の名残をシルクロードとして史跡保存している。この付近はかつてその「鑓水商人」の拠点として沸き立った集落で、豪商達の蔵が建ち並んだであろう。商人のひとり八木下要右衛門の屋敷跡に絹の道資料館がある。
 しかし、生糸の輸出により活況を呈した浜街道も1908(明治41)年の横浜鉄道(現在のJR横浜線)の開通によって、その使命を終えた。横浜開港からちょうど半世紀、にわかに脚光をあびたのち忽然と歴史の表舞台から消えた。山間に花開いた豪商達の夢は一瞬のうちに閉ざされた。


 「絹の道」は思わぬ結果を呼び覚ました。NHK流に言えばその時歴史が動いたのである。生糸の需要は高くいくらでも売れた。輸出品の80%が生糸である。しかも自由貿易だから忽ち輸出超過となり、国内では品不足が起こり諸物価が高騰した。生糸8倍・米は実に10倍である。庶民の生活は圧迫され貿易に対する反感が強まり「攘夷運動」が激化し、倒幕の機運に火が注がれた。皮肉な事に開国に踏み切った幕府が開国に抵抗するグループに潰されたいった。  
      


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