年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

近衛兵:北の丸

2009-02-11 | フォトエッセイ&短歌
 1867年、徳川幕府は滅亡したが、諸国の大名(藩)はそのまま存続しているのだ。そこで、1871年、廃藩置県(大名<藩>を廃止して県を置き、そこに中央から役人を派遣して政府の方針を徹底させる)を断行した。大名の完全リストラである。
 リストラ反対の抵抗運動を押さえるために、薩・長・土の3藩から屈強な武士約1万人を献兵させ新政府のスクランブル軍隊とした。これを「御親兵」と名付け、翌年には「近衛兵」に組織替えし「天皇および皇居の守備兵」とした。兵営を宮城の北の丸に置いた。

<近衛兵の軍靴が響いた清水門(高麗門:二ノ門)。手前右側が近衛砲兵兵舎>

 明治政府は国軍を創設するために徴兵制を実施した。そして、東京・大阪・熊本・仙台に4つの鎮台(地方を鎮める軍隊)に兵士を配属したので当時は「鎮台兵」と称した。従って、明治初期には国内の反乱を鎮圧する軍隊である「鎮台兵」と宮城の守護を専一にする「近衛兵」という全く任務の異なる軍隊が併存した。
 「近衛条例」には、近衛兵は、専ら輦下を護衛し、特旨によらない限り、他の徴発に応じるものではないとも記されている。「優秀な兵のみを集めた陸軍のエリート兵団」と言われた所以である。不平士族の暴動(佐賀の乱など)如きには出兵しなくてもよい、という事だ!
  
<西南は西郷が率いた西南戦争。近衛兵は優秀な壮丁を以て充てたという>

 1877(明治10)年、明治維新を画する最大規模の士族の反乱:西郷隆盛率いる「西南戦争」が起こる。政府軍は、鎮台兵だけでは不足となりエリート兵団:近衛兵にも動員をかけた。他にも屯田兵、警察巡査、士族出身の募集兵など明治政府は総力を挙げて戦わざるをえなかった。
 周知のように薩摩軍は壊滅して終わったが、引き出された近衛砲兵たちは恩賞が不公平であったばかりか俸給が減俸されたことに不満を抱いた。彼らは、近衛歩兵聯隊と協力して諸大臣を拘束し天皇に直訴する行動に出た。これが、竹下騒動(竹橋事件)である。

<水ぬるむ清水壕に映る竹橋。対岸の石垣が江戸時代の竹橋の橋台跡である>


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