朝、子供達を学校へ送って行く頃は霰が降っておりましたが、霙に変わりやがて本格的な降雪がお昼過ぎまで続き7~8センチの積雪となりました。

22日午前9時頃の画像
寒い日もあったけど、案外穏やかな12月と思ってましたが、クリスマスに合わせたかのような積雪、雪は少ない方が良いけど、それでも降る時に降らなければね・・・・笑
○ 青笹 中館探訪
12月21日、以前当ブログでエントリーした遠野菊池氏関連にて、青笹中下の菊池系図に関わる舘跡として、鳥古屋砦(館)のことが記述されており、青笹赤羽根辺りの山野に何か館跡と思しき形跡はないかと思い、赤羽根地区の通りをゆっくり車で流しておりますと、八坂神社のある山野西側に空堀跡か?と思えるような形状を確認、山も高くなく、歩きやすい雰囲気でもありましたので、訪ねて参りました。
山というより丘陵といったところ、頂部の平な場所は農地として整地されてはおりますが、さほど手を加えなくても平な場所だった雰囲気が感じられる。

車中で城館跡の例の資料を見ると、場所的に中館という近世屋敷跡と判明、いささか拍子抜けといったところでしたが、簡略図面には4本の堀が描かれ、屋敷跡というより平山城(館)そのもの、図面と現在地を照らし合わせて早速、空堀探しからはじめる。
西側中央部分の空堀

西側の郭との境を区切る堀切というべきか、雰囲気的には山野の西外れまで館跡のようだ。
背後の空堀


深さ、幅共に遠野では大きい部類で残存度も良好、今年見た堀跡では一番大きい。
東側、八坂神社側からの空堀

北部分の帯郭

☆中館・・・遠野市青笹町糠前(赤羽根)
平山城 標高325・比高25 丘陵・堀・八坂神社・墓地
館主 中館勘兵衛政常(八戸家家老)
使用年代 南部藩時代(江戸時代)
近世に使用されていた館跡ということで、空堀跡は明確に残されておりますが、帯郭等の段差ある形状は近年に農地とされていたと推測され、若干であるが平削された雰囲気を感じる。
空堀が枡型に東西南北に走り、それぞれ仕切られ4つの郭によって構成されている。
主郭は八坂神社側の一段高い平場と思われますが、形状はかなりの相違がありますが、雰囲気といいますか、考察するに八戸根城のミニミニ版といった雰囲気が小生は感じられました。
八戸氏重臣の中館氏、遠野に移って来てから故地八戸根城の雰囲気を残す館を築いたものなのか?
八坂神社


祭神・・・須佐之男命(スサノオノミコト)
さて、舘跡について地元の方に訪ねてみようと思い、八坂神社前の地区集会場に車を止める。
天の助けといいますか、丁度集会所で地域のご年配(老人クラブか?)の皆様の集まりがあったようで、運よくお帰りになるご年配の男性が出て来たので訪ねてみると、この男性、かなり地域の歴史についてお詳しい雰囲気・・・色々と講釈をいただき、たいへん参考になりました。
舘跡の一角に墓所がありますが、遠野南部家老中館一族の墓所との言い伝えとか・・・。

中館氏といえば遠野南部家では新田小十郎家に次ぐ第二席の家柄、野辺に墓所があるとは考えられない、あったとしてもある時期に然るべく菩提寺等に移されているとみるべきでは・・・・(喜清院がかつてこの近辺にあったというのでその名残か?)
それと中館氏といえば鍋倉城三の丸に屋敷があったと伝えられているが、何故に館形式の屋敷が青笹にあったのか?
三の丸の中館屋敷は慶安4年(1651)に鍋倉城本丸が飛び火で焼けた際に類焼して福田屋敷と共に全焼したとのことで慶安4年以前から三の丸に屋敷があったことになります。
水堀跡



今は水量の少ない単なる水路と化しているが、お話を伺ったご年配の男性が若い頃は小川であり、釣り等魚捕りもできた流れであったと言います。
かつての水堀だったとも言われております。
なるほどと、十分その雰囲気が感じられます。
最後に、遠野南部氏重臣、中館氏の知行地に糠前は含まれており、他に細越村、佐比内村(上郷)となっている。
遠野入部当初は新田氏、中館氏、岡前氏の八戸時代からの大身は大守南部利直よりその知行地の指定がなされており、伊達藩との境目の地域に割り当てられ、これらの家臣達が番所に勤務していた関係で中館氏は青笹に一時期屋敷を構えていたのではないのか?
しかし、平山城とはいえ、その構えは物々しい内容でもあり、中館氏以前から存在した館跡をさらに修復して使っていたのではないのか?このことが見え隠れする思いでもあります。
○ お知らせ
「遠野ぶれんど忘年会」
日時・・平成20年12月27日(土) 午後6時30分開宴
場所・・タントタント(中央通り)
会費・・ご心配なく・・・笑
本日のネネ

笑うしかない格好・・・。

22日午前9時頃の画像
寒い日もあったけど、案外穏やかな12月と思ってましたが、クリスマスに合わせたかのような積雪、雪は少ない方が良いけど、それでも降る時に降らなければね・・・・笑
○ 青笹 中館探訪
12月21日、以前当ブログでエントリーした遠野菊池氏関連にて、青笹中下の菊池系図に関わる舘跡として、鳥古屋砦(館)のことが記述されており、青笹赤羽根辺りの山野に何か館跡と思しき形跡はないかと思い、赤羽根地区の通りをゆっくり車で流しておりますと、八坂神社のある山野西側に空堀跡か?と思えるような形状を確認、山も高くなく、歩きやすい雰囲気でもありましたので、訪ねて参りました。
山というより丘陵といったところ、頂部の平な場所は農地として整地されてはおりますが、さほど手を加えなくても平な場所だった雰囲気が感じられる。

車中で城館跡の例の資料を見ると、場所的に中館という近世屋敷跡と判明、いささか拍子抜けといったところでしたが、簡略図面には4本の堀が描かれ、屋敷跡というより平山城(館)そのもの、図面と現在地を照らし合わせて早速、空堀探しからはじめる。
西側中央部分の空堀

西側の郭との境を区切る堀切というべきか、雰囲気的には山野の西外れまで館跡のようだ。
背後の空堀


深さ、幅共に遠野では大きい部類で残存度も良好、今年見た堀跡では一番大きい。
東側、八坂神社側からの空堀

北部分の帯郭

☆中館・・・遠野市青笹町糠前(赤羽根)
平山城 標高325・比高25 丘陵・堀・八坂神社・墓地
館主 中館勘兵衛政常(八戸家家老)
使用年代 南部藩時代(江戸時代)
近世に使用されていた館跡ということで、空堀跡は明確に残されておりますが、帯郭等の段差ある形状は近年に農地とされていたと推測され、若干であるが平削された雰囲気を感じる。
空堀が枡型に東西南北に走り、それぞれ仕切られ4つの郭によって構成されている。
主郭は八坂神社側の一段高い平場と思われますが、形状はかなりの相違がありますが、雰囲気といいますか、考察するに八戸根城のミニミニ版といった雰囲気が小生は感じられました。
八戸氏重臣の中館氏、遠野に移って来てから故地八戸根城の雰囲気を残す館を築いたものなのか?
八坂神社


祭神・・・須佐之男命(スサノオノミコト)
さて、舘跡について地元の方に訪ねてみようと思い、八坂神社前の地区集会場に車を止める。
天の助けといいますか、丁度集会所で地域のご年配(老人クラブか?)の皆様の集まりがあったようで、運よくお帰りになるご年配の男性が出て来たので訪ねてみると、この男性、かなり地域の歴史についてお詳しい雰囲気・・・色々と講釈をいただき、たいへん参考になりました。
舘跡の一角に墓所がありますが、遠野南部家老中館一族の墓所との言い伝えとか・・・。

中館氏といえば遠野南部家では新田小十郎家に次ぐ第二席の家柄、野辺に墓所があるとは考えられない、あったとしてもある時期に然るべく菩提寺等に移されているとみるべきでは・・・・(喜清院がかつてこの近辺にあったというのでその名残か?)
それと中館氏といえば鍋倉城三の丸に屋敷があったと伝えられているが、何故に館形式の屋敷が青笹にあったのか?
三の丸の中館屋敷は慶安4年(1651)に鍋倉城本丸が飛び火で焼けた際に類焼して福田屋敷と共に全焼したとのことで慶安4年以前から三の丸に屋敷があったことになります。
水堀跡



今は水量の少ない単なる水路と化しているが、お話を伺ったご年配の男性が若い頃は小川であり、釣り等魚捕りもできた流れであったと言います。
かつての水堀だったとも言われております。
なるほどと、十分その雰囲気が感じられます。
最後に、遠野南部氏重臣、中館氏の知行地に糠前は含まれており、他に細越村、佐比内村(上郷)となっている。
遠野入部当初は新田氏、中館氏、岡前氏の八戸時代からの大身は大守南部利直よりその知行地の指定がなされており、伊達藩との境目の地域に割り当てられ、これらの家臣達が番所に勤務していた関係で中館氏は青笹に一時期屋敷を構えていたのではないのか?
しかし、平山城とはいえ、その構えは物々しい内容でもあり、中館氏以前から存在した館跡をさらに修復して使っていたのではないのか?このことが見え隠れする思いでもあります。
○ お知らせ
「遠野ぶれんど忘年会」
日時・・平成20年12月27日(土) 午後6時30分開宴
場所・・タントタント(中央通り)
会費・・ご心配なく・・・笑
本日のネネ

笑うしかない格好・・・。
たいへんお久しぶりです。
ブログの方の更新も1年ほど停滞していたので、体調でも崩されたのでは?と気にしてましたが、ご自身関係の研究も継続というところで安心したところです。
さて・・・
中舘関連・・・
当ブログではコメントが一番つき、しかもアクセス解析でも未だに誰かが毎日アクセスしているというに具合です。
また遠野南部家における中舘氏のご末裔の方々のコメントもあり、さらには直接的にメールのやりとりもあって、たいへん恐縮したり驚いたり、明治維新後の中舘氏の事績やら運命等も触りではありますが知ることもできてたいへん有意義なエントリーとなっております。
今後も少しずつとは思いますが、また郷土史の調べを再開させながら自己研究にも励めたらと思うところです。
今後も是非にご助言やらご教授いただければありがたいです。
遠野郷における安政・慶応期の一火流砲術師範「中館数馬」とその父と思われ天保・嘉永期に活躍した「中館宮門儀良」・・・砲術秘伝書に記された「儀良」とはやはり「宮門」のことでした(っ´∀`c)。
そんな関係で「宮門」より遡って中館氏について調べていました。・・・もしかしたら御館様のブログに行き着くかなっては思っていましたが...ドンピシャ・・・じぇじぇじぇってやつです^^)
古文書『八戸御家二十二代 弥六郎直栄様御代大概之覚書』にも何人かの中館氏が登場します。この古文書は遠野村替後のことが主体ですが、八戸時代に中館氏惣領家(知行高千石)は度重なる戦の軍役に耐え切れず「致仕」したようです。そこで政栄は中館一族杉岡兵部少輔を家老に登用し、根城内に館を与え知行高二百石(知行地不明)とし「中館」を名乗らせたようです。
私はここが本家筋かと思ったのですが 村替後は勘兵衛系が惣領権を握ったようですね、金右衛門義久とその息子4人もあなどれない(^^:・・・(墓の主は息子4人の中の一人で勘兵衛家へ養嫡子として入った「左市」ではないでしょうか。)
いずれに致しましても、たくさんのコメント勉強になりました・・・。
はじめまして・・・
中舘姓ということですね。
ここでは南部藩(盛岡藩)遠野南部家家臣での中舘氏縁の城館屋敷跡探訪での内容を記述したに過ぎませんでしたが、遠野中館氏のご末裔の方々のコメントもあって、3年前のエントリーですが50コメントを越えロングラン的になっております。
南部藩と関係ある中館姓なのかは、不明ということでしょうか?遠野南部家の中舘氏ならば本家及び分家も数家に及びますが、その時代に分家というか家臣としての中館氏であれば末吉氏の先代、或いは先々代、すなわち祖父である末吉様の父、祖父のお名前がわかれば、遠野士族名簿に掲載されている可能性もあって、ここに合致すれば一気にご先祖のことが飛躍的に判明という場面かもしれません。
但し、あくまでも遠野南部家家臣の中舘氏の場合ということです。
ご先祖が青森県八戸や岩手県遠野に縁ある中舘姓の可能性は秘めている雰囲気も感じますが、いずれ深くは私も知識不足であり、またご先祖探しのノウハウを持っているものでもないので、お力になれないと思います。
いずれにしましてもコメントいただき感謝申し上げます。
苗字はもちろん中舘です。自分でない人が中舘さん?・・・・すごく不思議な感じです。
私は神奈川に在住しています。
くわしいルーツは全くといっていいほどわかりません。
父も神奈川にいます。祖父は九州にいました。若い頃は北海道で乗馬をやっていたときいていますが?その祖父もずいぶん前になくなり今は自分のルーツについての情報は全くありません。
ちなみに祖父の名前は「末吉」です。
何か事情がありそうな雰囲気もします。
遠野に残る城館跡を探訪しただけなのにコメントが50に迫る勢い、さらにご子孫の登場、本音は驚いております。
折角のご縁、何かと良い方向へと願うのみです。
実際子孫の方たちは まったく連絡取ってませんので どうしたものかと。。。
たいへんご無沙汰しております。
私個人としては、進展はないのですが、中舘様からご連絡を取りたいとの御意向で当ブログの記事が若干動いております。
個人情報やらがあると思いますので、これ以上はブログでは記することはできませんが、重要な内容が介在していると私は考えてますので、↓
bisyamon@tonotv.com
にメールをください。
私も趣味というか好きで中舘跡を調べてアップしましたが、ご子孫の方々のお出ましに力不足を感じているところです。
後はメールでの内容で対処させていただきたいと思います。
よろしくお願いします。
お世話様です
ご連絡を・・・とのことでメール送信いたしました。
友寿の娘(次女)様のコメント及びメールアドレスは個人情報ということもあって削除させていただきました。
たいへんお久しぶりです。
また、古いログへのコメント、なんかロングランみたいに長く続いていて、またこのエントリーによって遠野の歴史分野やら家老一族のとりもつ縁等、なんともありがたいというか、少しうれしい気持ちもいたします。
ところで投稿いただいた内容に中舘さんのメールアドレスが記されていましが、その部分だけ削除してコメントを再掲載しております。
友寿さんり娘さんには当方からメールにて連絡し、その際にアドレスを添付して送りたいと思いますのでご了承を願います。
よろしくお願いします。
勝久は 私の兄(異母兄弟)です 当家の戸籍からは排除され 私が戸籍上 長男となってます。
とらねこさんのお陰で本当にうれしいです
ありがとうございます
次女さん
是非とも お会いしたいですね ご連絡待ってます。
こちらこそ、ご無沙汰でした。
なかなか話も進展せず、また良い方向へとも話は進んでませんが、コメントに関してはロングランということで、中舘氏関連に興味を持つ方々が訪ねてくださるという思いもかけない展開でして、とにかく良い方向へ向かってくれればと思うところです。
なかなか“〆(^∇゜*)カキコ♪する暇がなくて・・・・
先日からの話ありがとう とらねこs?
中舘ご本家ご末裔、血統の方もこのようなブログに登場となり恐縮しながらも、自身でももう少し精度の高い郷土史分野の研究や勉強をしなければと襟を正す場面でもあります。
確か遠野においての中舘氏は主家と同じ南部向鶴(中に九曜紋)なはずですのでおそらく・・・かと思います。
菊水・・・これも何か由緒を感じますね。
私も端っこの端っこの分家だと思いますが中舘姓を名乗っております。
家紋についてですが、ご本家筋は九曜紋や南部鶴をお使いでしょうか。
私は丸に菊水を使っております。分家の裏家紋を表紋として使っているものと認識しております。楠木公にゆかりと敬意を表して、丸をつけ一段格を下げたのでしょう。
遠野南部家老の中舘氏とは何の関係もありませんし、詳しく調べたこともありません。
ただ、郷土史を志す過程において歴史的な資料に掲載されている内容の一部を調べたに過ぎません。(遠野南部時代の家老職歴代とか、遠野市史等の書籍、資料によるものとか)
ですから中舘氏に関わる伝承やら所蔵されているだろう古文書やらについても全くわかりません。
お付き合いはほとんどありませんが、小生と親戚である遠野のとある郷土史家さんは中舘本家のご末裔と何かしら接触があったかのような話を聞いた覚えがあります。
仙台に在住とか?・・・おそらくこちらにコメントされたご末裔の方だと思われますし、お探しの御弟様かもしれません。
一応当方のメールアドレスを張り付けしておきますので、中舘氏に関して差し支えのない範囲での情報等いただければと思いますし、親戚の郷土史家さんにお願いして、その内容等をお伝えして、仙台の中舘氏と連絡可能かどうか?その辺もメール内容を見ながら聞いてみようかなと考えております。
いずれ、当方のメールを介して連絡等が可能となった場合は、これらは一切表に出しませんし、双方の連絡が成った場合はアドレス等は破棄してご迷惑がかからないようにするつもりですので、よろしければお願いします。
無論、あくまでも支障のない範囲、また郷土史家さんのご理解やらご協力をいただけるかは不明でもあることも申し添えます。
bisyamon@tonotv.com
ひょっとしたら カツヒサさんではないですか?
そのような名前しか覚えてません ・・・・・・・
かかわりがありますでしょうか?
其れによっては私が聞いてきたところの話を伝えて行きたいとおもいます
残しておきたいこともありますけど・・・
ご子孫にしかわからない貴重なお話、伝えも多いと思います。
是非に機会がございましたら、支障のない範囲でお話願えれば思います。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
色々とお話有り難うそれでも亡き先祖に対しても いくつかの聞いた話もあります
とにかく弟なども分からない話もありますが
いずれお話してみたいと思ってます
そうでしたか、色々とご事情があったものとご推察しておりますが、きっと以前書き込みされた中舘さんの目にとまるものと信じておりますし、中舘氏関連のエントリーの際は必ずこの記事に辿りつけるようリンクもしたいと思ってます。
遠野南部家に関わる中舘氏のつながり、及ばすながら拙ブログでお役にたてるのなら光栄でもあります。
出会いとなれること、ご期待しております。
その人のお母さんには一度お会いしました
もしその人がこれを読んでくれたらきっとお話が出来ると信じて書き込みしました もう数十年前に年の離れた弟や妹もいました それできっとその弟だと思います
遠野南部家老中舘氏縁の凄い方々の度々の登場で鼓動が高まる思いでもあります。
世が世であれば小生の如く軽輩ではお話もできないものと思いますが、少し当方も落ち着きましたら中舘氏関連を及ばずながら調べてみたいと思いますし、より詳しくは遠野の郷土史家の先生方を訪ねられても良いかもしれません。
小生よりは遥かにより確かな情報等をつかんでいるかもしれませんので遠野市立図書館にメール等で問い合わせして郷土史家の先生を紹介いただく手もあると思います。
2009年1月にこのエントリーにコメントされた中舘さんとは違う中舘さんですか?友寿氏のお子さんということですが、双方別人なら先の中舘さんとは兄弟(姉弟)?
30数年前北海道で友寿と再会し、あれから
友寿も亡くなり、今ではルーツも分からず、
妹や弟もいるとおもうのですが、会いたいもんですね。長女も元気です。
以前こちらにコメントされていた中舘さんとは違う中舘さんかな?
過去ログにあるようにコメントいただいた中舘さんより遠野に本家はない旨の書き込みがあったと思います。
また小生も遠野南部家老加判の中舘本家については多くは把握しておりません。
ですが遠野には縁の中舘性があると思います。
いずれ、詳しく語れない知識が足りないということはその通りです。
詳しく聞きたいです!
はいっ、おそらくかなり遠い親戚かと思います。
こちらこそ今後ともどうぞよろしくお願いします。
コメントありがとうございます。
遠野家中の重臣、新田氏も同様に本家筋は遠野になかったと思いますが、色々と多難な道を歩まれたんだな・・・とご推察申し上げます。
小生の母方は工藤氏の一族ですが、分家筋でして、遠野にも若干中舘姓の方々も居られて、この家々は早くに分かれた分家筋ということになりますかね・・・ということで何かありましたらまた情報等お寄せいただればと思ってます。
父は友寿です、分家は三戸です^^
戦後 中舘家は数奇な運命を辿ってきました 本家中舘は爵位をもっていながら 市民のため 食糧難の為 ヤミ米販売をし 大日本帝国にばれそうになり 私の爺さんは首つりしました、そんなこんなで遠野には本家はありません。
亡き父から そう聞いてます。
鍋倉城二の丸に墓所が移される際の発掘、確か一部の遺品が博物館に展示されていたような・・・眼鏡とか和バサミ等が出てきたような・・・よく観てませんし、資料もスルーしてましたので今度確かめてみます・・・汗
仙台にも来年は別な意味で行ってみようと計画しております。
機会がありましたらお会いしたいものですね。
発掘されたんだろうと疑問に思った。
私事で恐縮ですが、最近いわき平・仙台木町通りにはまってるこの頃(江戸情緒の建物が多い)。本日拝見した安藤信正公のお墓は一見の価値があります。
遠野南部家は諸侯並の家格とはいえ、南部家の一家臣、中館氏は遠野の家老加判役を代々世襲する家柄といっても陪臣ですし、家禄400石程度、大判小判は話半分以上かと思ってます。
土饅頭・・・確かにこれは見ての通りですが、貴重な研究材料になり得るとのことで、引き続き発掘以外に何かしら調べていけたらと考えております。
仙台藩)がでてきた実例もあります。家老クラスでも自然石の墓には疑問をもちますが土饅頭
の痕跡が残っており墓制研究で貴重な資料と思います。
万が一小判がでてきたら遠野が脚光をあびますね。
再度のご教授ありがとうございます。
何か口を噤む歴史が隠れていそうな雰囲気ですね。
ただ墓石だけをみると現代感覚からすれば粗末な墓所で、ある時代に別場所に移されるのではないのかと疑問にも思えます。
地元の方は冗談混じりに掘れば大判小判が出てくるぞ・・・とも仰せでもありましたが、何かしらやはり隠れた歴史がありそうでもあります。
近日中に地元の資料等を再確認したいと考えております。
別の書物に、正徳2年、利勘の治世、遠野屋敷の宝物であった、一対の槍の一本を持ち出し私物化しようとした、是川氏が諌め、たしなめたが供の者と遠野に持ち帰ってしまった。殿も、御三家といえども許さん・・・・・ご存知の通り。
又、かの歴史学者、故 森嘉兵衛氏が生前、発掘してみたかった墓所の一つだったと言う、中舘家の許可が得られず断念したとの逸話もあり。
こんにちは、コメントありがとうございます。
吉田政吉著・新遠野物語にもこの事件に関して記述されておりますが、どうなんでしょうね?
それと墓石は複数あって、どれがどれなのか私にはわかりませんでした。
もう少し調べが必要なのかもしれません。
ご教授、ありがとうございました。
士族名簿での中館氏、おそらく本家である家老加判の中館氏の分家ということになろうかと思いますし、新田家や工藤家と共に分家等の家が多いのがみてとれます。
士族でかつては15石の青笹中館氏、本家より知行地の一部を分知された雰囲気もありますが、後に遠野南部家より正式に承認されたものか?いずれこの場所と大きく関わりはありそうですね。
堀Kさん、ここの館の堀に関連するということで苗字になったものか?
ちなみに、この八坂神社の持ち主は、H切さんで、おどろか開拓にも関係しているお宅です。
根につまずいてコケそうになりました・・・笑
というより足がもつれたが正直なところです。
見抜かれた思いです・・・汗
ここの神社、かなり雰囲気がそれらしいですよ、道路や住宅に近いのですがね・・・。
是非にご参加を・・・・。
大奥メンバーでは一如さん一人という雰囲気も無きにしもあらず・・・みんなで色んな思いを吹き飛ばしましょうぞ・・・。
おそらく仰せのとおりの知行地にある在郷屋敷といったことだと思います。
ただ長く使われた雰囲気はないのではないのか?と考えておりますが、お話を伺った地域のご年配の方によりますと、大判小判が出てくるかもと笑いながら仰ってました・・・笑
開発された農地という場所でもあり、どうなんでしょうね。
今回の舘跡探訪は八坂神社入口の西側から、舘跡からみれば正門かな?正面から攻め入っております。
昼なお暗いという雰囲気、小生も味わいましたよ・・・続石にブランコはひとりで揺れませんでしたが、藪を漕ぐ音にハッとしましたが、またもやカモシカでした・・・汗
以前、笛吹童子氏がご紹介しております来内の伊豆権現では全国に散らばる中館氏からの寄進のことも記述されておりますが、こちらでの中館姓に関しては不明です。
タント、よろしくお願いします。
クリスマスを控え、なんとかそれらしい雰囲気となった遠野です。
館跡は八坂神社も含まれ、その西側に展開されております。
叔父さん宅に行かれたついでにご探訪ください。
界隈に天王団地と呼ばれるところがありますが、八坂神社に関連する地名ということになりますね。
ワダグシは普段からぼーねんかいが多いので、
普段、外で飲むことが少ない座敷親父に一任します。
ん、でも、おらほの座敷童子からOKが出れば
途中から乱入するかも・・・です。
堀跡からいろいろでてきそうで興味深々。地元の代官所を発掘したとき簪(かんざし)が大量
出土したと聞いて・・・「えん奴(由美かおる)」もどきの芸者が御代官様と一緒にいたんだと妄想してウケました。
一度、夏の盛りにまがってみましたが、風も無いのに揺れるブランコのお陰で暑さが瞬時に引きました(w
神社の裏手は牧草地でしたから、とらねこさんは反対側から館攻めをしたのすね。
町とつぎもすしか知らなくて、青笹の中舘姓は近年知ったばかりでした…ご家老ですたか
で、タントタントれすね、おけですよぉ
日程だけはびしっと押さえてましたからぁ(笑
良く行きます・・・この界隈。
だってウチの親戚のお宅の目の前だから(w
この辺りは附馬牛から引っ越してきた方々が多いそうですね~
やはりこの季節の遠野は「雪景色」が似合う。
こういう絵を見てしまうと・・・ココロが疼く。
タントタントですね。ラジャー!(w
嘘ですよ。ウソ・・・