「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

剛球・石原繁三投手

2007-07-24 19:10:27 | 遠野
 夏の甲子園をかけた岩手県高校野球選手権大会は、花巻東高の逆転サヨナラという劇的な勝利で幕が降ろされましたが、専大北上高と双方逆転につぐ逆転の緊迫したゲーム、まさに高校野球決勝に相応しい内容だったと思います。

 そこで高校野球といいますか、遠野球界に燦然と輝く野球人を簡略ながらご紹介したいと思います。


 その前に・・・・・



 去る7月22日(日)、市消防団配備の消防ポンプの性能試験を上早瀬河川敷で行ないました。
 昨年は、猛暑の中、うだるような暑さの中、実施いたしましたが、ポンプから放水される水しぶきが一段と心地よく感じられましたが、今年は朝までは雨模様ながら、性能試験開始間際には雨もあがり、ジメジメとしたむれる天候、川の水も濁り気味で、できれば水を浴びたくない雰囲気でしたが、結局濡れてしまいました・・・涙



 まずは参加された団員の皆様、関係者の皆様、ご苦労さまでした。



 さて、本題・・・・・。

 以前ネットを通じて福岡高校OBの方で、福高野球部創立百周年を記念しての記念誌刊行ということで、とある人物について、調べてくれませんか、とお願いされた経緯がございました。

 その名を「石原繁三氏」・・・・大正期から昭和初期、旧制中学である福岡中、盛岡中が当時は県下中学野球界では両雄といっても過言ではない強さ、遠野中も徐々に力をつけてきた時代、そんな時代に登場したのが石原繁三投手、遠野中(現遠野高)の救世主といった位置付けだったかもしれません。

 この調査依頼、野球にはほとんど関わりがない自分としては、雲を掴むような内容、しかも石原投手の名も存在も聞いたことがなかった。
 ただ、幸にも職場の同僚、後輩には遠野高野球部出身者が多数いたため、彼らを頼ってOBの方と接触、簡略な内容ながらもその内容を送付した経緯がございました。

 今考えると、もうちょっと調べれば、それなりに格好が付く内容もわかったかもしれませんが、福高のOBの方は、さらに調べられて逆に教えていただくという場面もございました・・・・汗。

 さらにタイミングが良いといいますか、遠野高校野球部も創立百年を迎えるという時期であり、遠野高でも野球部創立百周年記念誌刊行の準備に入っていた時期でありましたが、半年ほどして、今度は石原投手のブロ時代の写真が送られてきました。
 数名のチームメイトと映っている写真でしたが、どの方が石原投手か?・・・詳しい方から聞いてくれませんかとの内容、このくらいなら直ぐにでもお役に立てそうということで、六日町の米雑穀店のご主人(元上司)に早速聞いてみる。

 しかし、元上司の方より年代的にだいぶ上の先輩とのことで、なかなか判明に至らず、石原選手と若干交わりがあった方を見つけていただき、ようやく判明といったこともございました。



 旧制遠野中時代の石原投手


 石原投手は、昭和5年(1930)9月に成田中(千葉県、現成田高)から遠野中に転入、遠野中野球部に入部する。
 何故に岩手の遠野へ来たのかは、割愛いたしますが、縁があったこと、これは確かなことだと私は思っております。

 石原投手の球は、まさに剛球だったそうで当時の遠野野球界の面々は大いに驚くと共に来期からの試合では大戦力を得た思いだったとも語られます。

 しかし、俗にいうノーコン投手、なかなかコントロールが定まらない欠点もあったそうですが、畳に穴を開けてその穴めがけて投げ込みを続け、コントロールの欠点を克服したといいます。
 人々は石原のタタミ投法と名付けて長らく語ったそうです。

 また、その剛球故、その球を受ける捕手がいないという場面もあって、まるで「巨人の星」での星飛雄馬みたいな逸話でもありますが、一つ先輩の選手が特訓を重ね捕手となり、いよいよ翌年の昭和6年7月25日、盛岡中、一関中、黒沢尻中、盛岡商業、福岡中、久慈農林、遠野中の七校で県大会が始まります。

 石原投手を擁する遠野中は、一回戦不戦勝、二回戦準決勝から登場、相手は強豪福岡中、しかし、まさに今、プレーボールが主審から告げられようとする瞬間、福岡中ベンチから異議が出された。

 石原投手の転校にかかる出場資格問題だったらしいが、紛糾したそうで、結局、石原投手はメンバーから外され試合開始、0-20の大惨敗を喫し、遠野中の夏は終ります。

 福岡中は決勝で盛岡中を下し、続く東北大会も制し全国大会へ出場。


 昭和7年、前年の屈辱を晴らすべく、この年の夏の県大会が7月24日から始まる。
 盛岡商業、黒沢尻中を大差で撃破、決勝は盛岡中と対戦するも石原が打たれ1-4で敗戦する。
 しかし、東北大会出場枠が二校ということで、東北大会へ駒を進める。

 8月1日、福島市において東北大会が始まると、磐城中(福島)を下し、準決勝では仙台一中を破り、決勝へ進出。
 2試合とも石原投手の快投が光る試合だったといわれる。

 決勝は、宮城県工と対戦、7-0で勝利、創部29年目の快挙、全国大会初出場を果たした。

 8月13日全国大会、初戦は朝鮮代表の平城中、4-2で撃破。
 続く8月16日、長野商業と対戦するも相手にノーヒットノーランを喫し、0-6で完敗。


 その後、石原繁三は卒業すると鉄道省に入省。
 昭和11年、日本にプロ野球球団が誕生すると東京セネターズ(現日本ハムファイターズ)に入団。
 
 通算成績は31勝42敗、防御率2.4
 124試合に登板、48完投、9完封。

 東京セネターズ→翼球団(太平洋戦争により横文字使用不可につき改名)⇒大洋・・・1936~41

 黒鷲・大和・・・1941~42

 この間、満州に2度応召、実働4年間、終戦後、戦地から引き上げるも帰国3日後に病死と伝えられるも詳細は不明。

戦争がなければプロ野球人として大成したかもしれませんし、遠野球界への多大な良い影響がもたらされたかもしれません。


 夏の高校野球県大会、ここ数年は遠野高もベスト8、16と上位に食い込む活躍を見せておりますし、遠野緑峰高も昨年の初戦突破に続き、今年も初戦を制し、二回戦では春の東北チャンピオン一関一高と中盤までは肉薄する試合を演じております。
 遠野の高校球界も上向き傾向かと思っておりますし、今後の奮起、ご健闘とご活躍をご期待いたします。
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2 コメント

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誇る事さえ忘れている! (romi)
2007-07-24 22:18:24
大変ありがたい!・・・もはや資料ですね。
遠野中学の時の話でしょうから・・・・野球をする者として覚えておかないといけない事項かと思います。
そうだったんだー。ふむふむと吸い込まれました。

22日は私も赤い車に乗って伺う予定でした。
前の週に雨が降って一週間ずれ込み野球をしない団員に頼みました。
10時過ぎからは見違えるほど天候が回復して暑かったぁー
黙って立っているだけで汗がボタボタ零れ落ちましたよ。
なんと初戦で敗退と言う妙な結果となりましたが・・・俺達の甲子園は来年もある!頑張るぞ!!
まず、体を絞らないと・・・・・(T_T)
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甲子園 (とらねこ)
2007-07-25 17:44:43
romiさん
今で言う甲子園、全国大会に出場した遠野における最初の選手のひとり、そして大黒柱・・・。
こうしたスポーツの歴史も少しは皆さんに知らしめることが必要ではないでしょうかね・・・。

野球は残念でしたね、昨年、確か市の大会で好成績を収めた際は、7区コミュニティにお邪魔して、ワインをご馳走になった記憶がございます。
今年は、見送りですね・・・涙
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