天正20年6月11日付・「聞老遺事」梅内祐訓著に南部大膳太夫分国の内諸城破却共書上の中に、遠野分として・・・・
増沢 山城 浅沼忠次郎持分
横田 山城破 信直抱代官九戸左馬助唐之者供
板沢 山城破 浅沼藤次郎持分
とあり、増沢(鱒沢)舘のみ残して横田、板沢の城館は破却したと記されている。
豊臣秀吉の天下となり、南部信直は南部内七郡含みの本領安堵の朱印状の発給をうける。
南部内七郡とは
糠部郡・鹿角郡・岩手郡・志和郡・稗貫郡・和賀郡・閉伊郡とされ、稗貫、和賀の各郡は、新たに加えられたいわば新領地ともいえる。
しからば遠野は閉伊郡のうちに含まれるか、
この疑問を払拭できるのが、上記に示した内諸城破却書上ということになり、領主であった遠野阿曾沼氏は南部信直の支配下に置かれたことになり、語られる伝えも南部氏の附庸という立場で、表向きは支配下に組み込まれたものと推測できます。
よって、閉伊郡内の一地域と成り得る内容かと思われます。
しかし、三つの城の持主に関しては、鱒沢は浅沼忠次郎とあるが、語られる舘主は鱒沢広勝とされる。
しかしながら、慶長6年に広勝の跡を継いだ鱒沢広恒は、浅沼忠次郎を名乗ったとされるので、鱒沢館の浅沼忠次郎は鱒沢氏ということになり、一応その記述に関しては大きな間違いではない、しからば、板沢の浅沼藤次郎とは・・・・
板沢舘は一応に菊池姓板沢氏の居舘といわれるが、あくまでも阿曾沼氏家臣の舘ということか、浅沼、阿曾沼は同意義とされ、天正20年当時の阿曾沼氏当主は、阿曾沼広郷であり、遠野孫次郎ともいわれている。
したがって浅沼藤次郎は浅沼孫次郎となる可能性も考えられるのではないのか?
そして横田城・・・
信直抱代官・・とあるように南部信直の直轄という意味となろう、横田城の代官は九戸左馬助という人物と唐之者供・・・唐之者供の意味はわかりませんが、その他の者といった意味合いか、そうしますと城主であった阿曾沼広郷はその他の者として低く取り扱われていたのだろうか?
考えてみれば阿曾沼支族の鱒沢氏の居舘である鱒沢館は取り壊さず、阿曾沼氏の居城や主な舘を破却したという内容となり、遠野の歴史で語られる慶長年間における鱒沢広勝等による阿曾沼広長の追放劇、南部信直にはかつての遠野領主、阿曾沼氏追い落としの思いがこの時既にあったものか、少なくても阿曾沼氏を軽視していたこと、鱒沢氏を贔屓にしていたことが垣間見れる内容かもしれません。
さて、簡略な考察を加えてみましたが、史実であろう内容は、横田城(鍋倉)は慶長年間も破却されず存在し、遠野郷の要の主城として機能していたこと、板沢舘も板沢氏が守り、気仙口方面の主館として機能していたこと、無論、鱒沢館も江刺や稗貫、和賀に通じる軍事、交通の要所としての極めて重要な舘であったことは否めない事実と思います。
南部48城破却の事、文書の日付である天正20年6月11日と書かれていたので、かなり信憑性があるのではと思ってましたが、これは後の時代に書かれたものか、少なくても南部領内の後の時代、すなわち江戸期に停廃された城館を豊臣時代には廃されていたことにする内容、若しくは遠野に関しては、阿曾沼氏の没落を確認してからの内容を織り交ぜたものか、そんな思いもいたしますが、毎度のことながら、今後の研究課題として留め置き、しかるべきときに研究してみたいと思っております。
難い内容の後は・・・おまけ1
花巻市内の某病院に入院中の知人のお見舞いに行って来た。
明日退院ということで、お見舞いはギリギリセーフ、軽く世間話等をしてから病院を後にして、度々当ブログにも登場の「マルカンデパート」の大食堂に昼食を食べに行きました。
題して「ひとりマルカン」

午後1時近く、お昼のピークも収まっている時間帯なのか、割と空席が目立つ。
注文したのは・・・

中華そば・・・・支那そば・・・ともいいますが、昔懐かしいシンプルな醤油味・・・岩手県内ラーメン美味処選手権とかラーメンベスト100とかでは常にベスト10入する有名ラーメンでもあるようです。
美味いには美味いながらも、こってり系好きの私には少し物足りない・・・笑
そして・・・

名物、特大ソフトといきたいところですが、そのソフトクリームをカップに入れたカップソフト。
今はこちらの方が流行らしい・・・です。
いい歳した親父一人、カップソフトを美味そうに食べる姿、想像してみてください・・・・笑・・・でも美味い・・・ラーメンとカップソフトで、〆て460円也
昭和の香りが漂う雰囲気ながらも、ウェートレスさんが若返り、しかも皆さん可愛い・・・「萌え~・・・」と叫びたい気持ち、なんとなくわかったような気がいたしましたが、変なオジサンと思われたくありませんので、次からは家族でまじめに行きたいと思います。

おまけ2
今日のネネ・・・・花巻から帰宅すると一匹でお留守番

お昼寝中でした。
増沢 山城 浅沼忠次郎持分
横田 山城破 信直抱代官九戸左馬助唐之者供
板沢 山城破 浅沼藤次郎持分
とあり、増沢(鱒沢)舘のみ残して横田、板沢の城館は破却したと記されている。
豊臣秀吉の天下となり、南部信直は南部内七郡含みの本領安堵の朱印状の発給をうける。
南部内七郡とは
糠部郡・鹿角郡・岩手郡・志和郡・稗貫郡・和賀郡・閉伊郡とされ、稗貫、和賀の各郡は、新たに加えられたいわば新領地ともいえる。
しからば遠野は閉伊郡のうちに含まれるか、
この疑問を払拭できるのが、上記に示した内諸城破却書上ということになり、領主であった遠野阿曾沼氏は南部信直の支配下に置かれたことになり、語られる伝えも南部氏の附庸という立場で、表向きは支配下に組み込まれたものと推測できます。
よって、閉伊郡内の一地域と成り得る内容かと思われます。
しかし、三つの城の持主に関しては、鱒沢は浅沼忠次郎とあるが、語られる舘主は鱒沢広勝とされる。
しかしながら、慶長6年に広勝の跡を継いだ鱒沢広恒は、浅沼忠次郎を名乗ったとされるので、鱒沢館の浅沼忠次郎は鱒沢氏ということになり、一応その記述に関しては大きな間違いではない、しからば、板沢の浅沼藤次郎とは・・・・
板沢舘は一応に菊池姓板沢氏の居舘といわれるが、あくまでも阿曾沼氏家臣の舘ということか、浅沼、阿曾沼は同意義とされ、天正20年当時の阿曾沼氏当主は、阿曾沼広郷であり、遠野孫次郎ともいわれている。
したがって浅沼藤次郎は浅沼孫次郎となる可能性も考えられるのではないのか?
そして横田城・・・
信直抱代官・・とあるように南部信直の直轄という意味となろう、横田城の代官は九戸左馬助という人物と唐之者供・・・唐之者供の意味はわかりませんが、その他の者といった意味合いか、そうしますと城主であった阿曾沼広郷はその他の者として低く取り扱われていたのだろうか?
考えてみれば阿曾沼支族の鱒沢氏の居舘である鱒沢館は取り壊さず、阿曾沼氏の居城や主な舘を破却したという内容となり、遠野の歴史で語られる慶長年間における鱒沢広勝等による阿曾沼広長の追放劇、南部信直にはかつての遠野領主、阿曾沼氏追い落としの思いがこの時既にあったものか、少なくても阿曾沼氏を軽視していたこと、鱒沢氏を贔屓にしていたことが垣間見れる内容かもしれません。
さて、簡略な考察を加えてみましたが、史実であろう内容は、横田城(鍋倉)は慶長年間も破却されず存在し、遠野郷の要の主城として機能していたこと、板沢舘も板沢氏が守り、気仙口方面の主館として機能していたこと、無論、鱒沢館も江刺や稗貫、和賀に通じる軍事、交通の要所としての極めて重要な舘であったことは否めない事実と思います。
南部48城破却の事、文書の日付である天正20年6月11日と書かれていたので、かなり信憑性があるのではと思ってましたが、これは後の時代に書かれたものか、少なくても南部領内の後の時代、すなわち江戸期に停廃された城館を豊臣時代には廃されていたことにする内容、若しくは遠野に関しては、阿曾沼氏の没落を確認してからの内容を織り交ぜたものか、そんな思いもいたしますが、毎度のことながら、今後の研究課題として留め置き、しかるべきときに研究してみたいと思っております。
難い内容の後は・・・おまけ1
花巻市内の某病院に入院中の知人のお見舞いに行って来た。
明日退院ということで、お見舞いはギリギリセーフ、軽く世間話等をしてから病院を後にして、度々当ブログにも登場の「マルカンデパート」の大食堂に昼食を食べに行きました。
題して「ひとりマルカン」

午後1時近く、お昼のピークも収まっている時間帯なのか、割と空席が目立つ。
注文したのは・・・

中華そば・・・・支那そば・・・ともいいますが、昔懐かしいシンプルな醤油味・・・岩手県内ラーメン美味処選手権とかラーメンベスト100とかでは常にベスト10入する有名ラーメンでもあるようです。
美味いには美味いながらも、こってり系好きの私には少し物足りない・・・笑
そして・・・

名物、特大ソフトといきたいところですが、そのソフトクリームをカップに入れたカップソフト。
今はこちらの方が流行らしい・・・です。
いい歳した親父一人、カップソフトを美味そうに食べる姿、想像してみてください・・・・笑・・・でも美味い・・・ラーメンとカップソフトで、〆て460円也
昭和の香りが漂う雰囲気ながらも、ウェートレスさんが若返り、しかも皆さん可愛い・・・「萌え~・・・」と叫びたい気持ち、なんとなくわかったような気がいたしましたが、変なオジサンと思われたくありませんので、次からは家族でまじめに行きたいと思います。

おまけ2
今日のネネ・・・・花巻から帰宅すると一匹でお留守番

お昼寝中でした。
唐之者共と記しましたが、間違いで唐之供がホントです・・・謝
そうしますと、稲用さんの解説のように、朝鮮征伐関連で南部信直の供をして肥前名護屋に出向いたということになりそうですね。
九戸左馬助という人物は南部家関連では聞かれない名であり、誰を指すのか・・・?
唐之・・・が前の名を修飾しているかは不明ですが、唐之供をしたということかと思います。
これが横田城破却とどんな関係があるかは、ますますわかりませんが、いずれ、天正20年は朝鮮征伐以前の年号ですからね。
写真、確認しましたよ・・・笑
で、とらねこ代官殿。唐之‥は前の姓名を修飾しているのではないかしらん?
信直の代官、朝鮮征伐に出陣した九戸左馬之助
というように どーでーしょー
それから、宅の写真おっきくなりましたので見に来ておくれ^^
唐之供に関して了解いたしました。
確かに朝鮮出兵に関して名護屋の陣に出向いた南部信直関連で唐之供と出てくるようです。
そうしますと、天正20年と記された内容は朝鮮の役より前年でもあり、やはり後世に書かれたものか、さらに阿曾沼広郷或いは遠野武士の誰かが名護屋へ出向いたか、はたまた九戸左馬助に従った者が共に横田城詰めとなっていたということになりますかね・・・。
南部氏に縁ある人物で九戸左馬助とは誰なのか、これもまた疑問でもありますね。
北信愛が名護屋に参陣した経緯もあるようですから、横田城代官は北信愛なのか?・・・・難題山積といったところです。
まずはご見解ありがとうございました。
朝鮮に渡らないまでも、名護屋に参陣していれば唐之供ということになったんですね。
唐之供・・・一如さんへのコメント返しに一応書きましたが、よくわかりません。
勉強不足です・・・・稲用さんにでも聞いてみたいと思います。
それか盛岡の工藤先生ならご存知かと思いますので、どうしてもわからない場合は聞いてみたいと思います。
当方も何度かご紹介しておりますが、同僚達や知人がブログをみて、花巻に行ったついでに立ち寄ったとのお話しを結構聞かされました。
皆さん、良い感じでした、また行きたいと仰せですので、数年ぶりにご家族でいかがですか、大人も子供のメニュー豊富で満足するものと思います。
値段のこともあるし、メニューも豊富ですから、私もついつい複数頼んでしまいがちでした・・・確かに食べすぎで苦しかった・・・笑
雰囲気はいつ訪れても変らず、私は好きですね。
しかも仰せのようにウエートレスさんがこれまたいい・・・汗・・・正直な気持ちです。
数年前は私と同年代の方々、それ以上の方々があの姿で・・・これもまたなんとも・・・・懐かしいが先行しましたが、今はさらに楽しみが増えました・・・笑
城破却に関しての文書の存在はともかく、何かしら各勢力に関して制御する内容はあったものと考えます。
横田城にしても、完全に城の機能が阿曾沼氏によって出来上がっておらず、というか完成はまだで、これらの差し止めみたいな感じだったのか・・・とも考えます。
マルカンデパート、度々取り上げてますが、でかい食堂ですよ、そして安い、早い、美味い(個人差がありますが)、結構人気です。
さらにウエートレスさんがこれまたいい感じ、古き良き時代の雰囲気とのギャップも魅力です。
次回は、お帰りの際の新幹線までのお時間にでもご案内いたします。
唐之供・・・その意味はわかりません、私はその他の者として捉えましたが、これも自信がございません。
しかし、これらに関しても考察した論文なんかでは、横田城の場合は、唐之供は城主であった阿曾沼広郷ほ指すような捉え方かなと私は受け取りました。
城に関る一族やら一門といった名は出せないがそれでも結構影響力のある人々か?
いずれ明らかにしたいと思います。
要は豊臣の天下となり、一国一城的な考え方で地方の主だった城は残してもその多くを廃せよとの命によって廃した、する、城のリストと考えればよろしいかと思います。
しかし、その多くはその後も現存したものが多く、その信憑性が薄いと考えております。
遠野の場合も史実として語られる内容と矛盾もあって、解説じみた内容となりましたが、今後の研究が必要かと思っております。
遠野者共?等の者共?
大変な違いになります。
増沢のみ残したのは、小友金山に対する利用価値があったからかな?横田や板沢は目の上のたんこぶかな?盛岡南部さんにとっては・・・・
上の子が、まだお腹の中にいたときに行ったきり。
当時は、もの凄い食欲で「全部食べれるから」と座敷親父が止めるのも聞かず、オムライス・ソフトと後、何か一つ頼んだ記憶があります(笑)
欲張って注文したのはいいけれど、量が多過ぎて、結局は残してしまった苦い記憶が蘇ります。もったないお化けがでますね。
マルカン大食堂の名物は、昔懐かしいシンプルなラーメンやソフトもそうですが、
やはり何といってもメイドウエイトレスの制服が…
でも、これいい感じです。
南部四十八城の破却、どの城がどこまで破却されたのか・・・。
根城も虎口が破壊された以外はほぼそのままの状態で遠野移転まで機能し続けたそうですから、横田城もそのようにして機能したのでは?と思います。
それにしても大きな食堂ですね。
そのうちここも行ってみないと駄目かもしれません。
取材先が増えて大変というかうれしい悲鳴になりそうです。
九戸左馬之助という人は書いているとおり代官、つまり南部からの出向役員。で、からのものども って読むのだろうか??? ん? 唐之者供が出向役員って事? 唐は中国や朝鮮の方を指す他に広く外国という意味もあるらしい(by大辞泉) 知りたい病です(笑)
ネネくんはもう…あられもないお姿で(笑)。
見当違いの考察が入っているかもしれませんが、いずれ本編サイトで6周年記念として何かしらご紹介したいと考えております。
それで電話での内容、当方の勝手な思い込みで例のざっこ食いの場所、再検討ということになりました。
只今、宝飯爺さんと物色中ですから、木曜日辺りまで場所については、しばしお待ちください。
いずれ雨が降っても大丈夫というところまでなんとか・・・・。
歴史の考察に敬服です。
本日、図書館でカバナシで写真展の話を・・・・
課長が乗り気?でしたよ。
コーンはありませんが、長めのスプーンでじっくりとソフトを味わえる逸品かと思います。
無論、複数人で割箸でも食べれますしね・・・笑
是では割り箸で食べるわけにもいかんゼヨ。
ジャイアントコーンの逆さバージョン。
納得した・・・けどサァー。安定感はあるけどサァー。