秋仕舞い・・・・
稲作農家だった我家、この時期、親父は農機具類の手入れ、母親や祖母は畑の作物の大方の収穫と枯木、枯草の除去を行い、家の周囲をサッパリと清掃して、一応に一年の農作業の区切りとしておりました。
無論、農家の業態によって、それぞれ秋仕舞の時期は違いはありますが、大方、今時期だったと記憶しております。
夜は、家族でそれなりのご馳走をいただき、無事に農作業を終えた喜びを分かち合った・・・はずです。(ご馳走はカレーライスか鶏汁だったような)
農家でなくなった我家、農機具のほとんどは保有しておらず、よって一番使用頻度が高かった草刈機械の燃料を抜き、エンジンを回した後に軽く乾拭きして小屋に終い込んだ。
それと庭を軽く清掃して、自分流の我家の秋仕舞といたしました。
○冬支度・・・わしぇ垣(わしぇがき・ましぇがき)
自分の冬支度としては、車のタイヤ交換を行えば一応に冬支度が成ったという位置付けですが、昔の我家の冬仕度といえば「わしぇ垣」を結っていたこと。
冬期間、天ヶ森、矢崎山から吹き降ろす北西の寒風、そして吹雪、何も遮るものがない場所にある我家、ましてや隙間だらけで今考えればかなり冷え込んだ我家、わしぇ垣を結って寒さを凌いでいたといっても過言ではない。
当時の集落内を思い起こしてみると我家の他に数軒わしぇ垣をからくっていたという記憶はあるが、そう多くは見た記憶はない。
しかし、未だに市内の何処かのお宅で、わしぇ垣を結っている家があるのではないのか、少し時期が早いような気がしたが、秋仕舞を終えた午後に綾織、宮守、附馬牛を回ってきたが、発見に至らず・・・・。
唯一、附馬牛町内の某所でそれなりの雰囲気のお宅を発見・・・・。
少しこじんまりとしているが、こんな感じだった。
※萱や葦を大きなすだれ状にしたものと藁を組み合わせて、杭、ハセをからくって、垣根といいますか塀状にしたものを「わしぇ垣」と言っていた。
イメージ
こんな感じ・・・・笑
いずれ私が高校生の頃まで、わしぇ垣を結っていたが、窓類がアルミサッシとなって、気持ち的に格段と家の中が暖かくなったと感じた・・・笑・・・今考えると気のせいと思われる・・・汗
わしぇ垣結いは、秋仕舞と前後して行われたような、落ちたゴンドを弟と二人で拾い集めを命じられた記憶があるので、秋仕舞の前日か・・・?
今ではみられなくなった光景と今更ながら懐かしく思い起こしております。
おまけ
先日、遠野郷八幡宮で宮古の黒森神楽が演じられましたが、遠野ぶれんどの何人かも観賞されたということで、各ブログにその模様がエントリーされておりますが、その中で、黒森神楽の師匠の供養碑が福泉寺にあるという内容があって、私自身、初耳であり気になっていたので、早速聴取して参りました。
どうやら塔婆のようです。
佐○姓の方で、福泉寺の信徒さんとのこと。
黒森神楽と福泉寺の接点はないようですが、現住職も先代住職共に下閉伊郡(川井村小国)のご出身で、宮古地方にも親類等もいて、こういった関係から信徒となられたものと推測しております。
この塔婆の中のどれかということですが、文字が消えかかっていて確認できず・・・・。
亡き親父は駒木神楽の太夫でありましたし、神楽保存会最後の会長でもありました、また昭和30年代まで海岸地方の巡業にも出かけていたともいわれ、接触はなかったと思いますが、福泉寺を中心に何か関係はあったような気がいたします。
稲作農家だった我家、この時期、親父は農機具類の手入れ、母親や祖母は畑の作物の大方の収穫と枯木、枯草の除去を行い、家の周囲をサッパリと清掃して、一応に一年の農作業の区切りとしておりました。
無論、農家の業態によって、それぞれ秋仕舞の時期は違いはありますが、大方、今時期だったと記憶しております。
夜は、家族でそれなりのご馳走をいただき、無事に農作業を終えた喜びを分かち合った・・・はずです。(ご馳走はカレーライスか鶏汁だったような)
農家でなくなった我家、農機具のほとんどは保有しておらず、よって一番使用頻度が高かった草刈機械の燃料を抜き、エンジンを回した後に軽く乾拭きして小屋に終い込んだ。
それと庭を軽く清掃して、自分流の我家の秋仕舞といたしました。
○冬支度・・・わしぇ垣(わしぇがき・ましぇがき)
自分の冬支度としては、車のタイヤ交換を行えば一応に冬支度が成ったという位置付けですが、昔の我家の冬仕度といえば「わしぇ垣」を結っていたこと。
冬期間、天ヶ森、矢崎山から吹き降ろす北西の寒風、そして吹雪、何も遮るものがない場所にある我家、ましてや隙間だらけで今考えればかなり冷え込んだ我家、わしぇ垣を結って寒さを凌いでいたといっても過言ではない。
当時の集落内を思い起こしてみると我家の他に数軒わしぇ垣をからくっていたという記憶はあるが、そう多くは見た記憶はない。
しかし、未だに市内の何処かのお宅で、わしぇ垣を結っている家があるのではないのか、少し時期が早いような気がしたが、秋仕舞を終えた午後に綾織、宮守、附馬牛を回ってきたが、発見に至らず・・・・。
唯一、附馬牛町内の某所でそれなりの雰囲気のお宅を発見・・・・。
少しこじんまりとしているが、こんな感じだった。
※萱や葦を大きなすだれ状にしたものと藁を組み合わせて、杭、ハセをからくって、垣根といいますか塀状にしたものを「わしぇ垣」と言っていた。
イメージ
こんな感じ・・・・笑
いずれ私が高校生の頃まで、わしぇ垣を結っていたが、窓類がアルミサッシとなって、気持ち的に格段と家の中が暖かくなったと感じた・・・笑・・・今考えると気のせいと思われる・・・汗
わしぇ垣結いは、秋仕舞と前後して行われたような、落ちたゴンドを弟と二人で拾い集めを命じられた記憶があるので、秋仕舞の前日か・・・?
今ではみられなくなった光景と今更ながら懐かしく思い起こしております。
おまけ
先日、遠野郷八幡宮で宮古の黒森神楽が演じられましたが、遠野ぶれんどの何人かも観賞されたということで、各ブログにその模様がエントリーされておりますが、その中で、黒森神楽の師匠の供養碑が福泉寺にあるという内容があって、私自身、初耳であり気になっていたので、早速聴取して参りました。
どうやら塔婆のようです。
佐○姓の方で、福泉寺の信徒さんとのこと。
黒森神楽と福泉寺の接点はないようですが、現住職も先代住職共に下閉伊郡(川井村小国)のご出身で、宮古地方にも親類等もいて、こういった関係から信徒となられたものと推測しております。
この塔婆の中のどれかということですが、文字が消えかかっていて確認できず・・・・。
亡き親父は駒木神楽の太夫でありましたし、神楽保存会最後の会長でもありました、また昭和30年代まで海岸地方の巡業にも出かけていたともいわれ、接触はなかったと思いますが、福泉寺を中心に何か関係はあったような気がいたします。
我家が愛宕神社の別当ということはそのとおりながら、今は名だけの内容となっておりますが、神楽の別当家であったかはわかりません。
我家系は女系でして、男子が生まれても早世したりという時期が続き、当主は婿養子を迎えていた事実があります。
神楽そのものを始めたのは親父だけではないのかと考えているところです。
親父は17歳から神楽の太夫を始めたと聞いたことがございます。
社○工○のお宅の爺さんと共に始め、集落内の師匠宅に通って鍛えられたといいます。
しし踊りの隆盛と共に神楽は衰退し、昭和40年代に一時廃れたそうですが、平成元年に当時、神楽経験のあるご年配方によって復活しましたが、親父の死を以って活動が休止状態となっております。
後継者がいないというなんとも寂しい話ではありますが、その一端に私自身もいたりして、なんとも言い訳はできません。
妙泉寺との関連はわかりません。一応に福泉寺はその流れを汲む寺院との解釈ではありますが、小出の方々ほとんどが檀家ではありますが、大正期に入ってからですから神楽との関連は薄いものかもしれません。
内容自体は小倉神楽が一番近いとの話もあって、親父が亡くなった後、後継者を育てるべく小倉神楽から教えをいただくような話もあったようですが、私を含め、保存会の主だった方々の息子さん達がイエスと言いませんでしたので、復活は今の所望めない現状なんです。
なんとかしたいと思うもなんともならず・・・です。
で「わしぇ垣」・・・・
おらほでは「ましゃ垣」と・・・・耳で覚える言葉ですのでなんとも言えないのですが。
回した垣根の事だろうか????
いずれ、通じるから面白い!
血管の中には太夫の血が流れている・・・凄いじゃないですかー。
お祭が好きなのが解ります(違った?)
さて貴重な空がお出ましですねー。
何処ぞ出かけねば・・・・・。
ここでは「わしぇ垣」としていますが、私の記憶の中では「ましぇ垣」なんですよね。
母親に確かめたところ「わしぇ垣」と言い張って譲りません・・・笑
おかしいと思いながらも、私より長く生きてますし、垣根を結っていた本人談ですから、譲ってのエントリーです。
太夫の血・・・
芸能音痴な自分、松崎の芸無しと上じぇんごの方々に松崎の人間は言われていたそうです。
そんな芸無しの代表格が自分かもしれません・・・笑
でも松崎でも駒木地区は神楽、しし踊り、神仏に捧げる芸能が伝承されている土地柄、決して芸無しの地域ではなく、むしろ盛んな地域なんですがね。
駒木にも神楽がある。
幕も太鼓も笛も舞いも素晴らしい。
なにやら、感動した時間でした。
みなさん、それはそれは生き生きとしていていました。
今は、休止中ですか、もったいないですね(シュン)
えんでとけしょ方面ではつがうんだべがーと思ってやんしたが、おなじずがー、やはりね。
旧村単位もしくは大字や字単位で微妙に違うのは良くある事。
GOさん所でしたかな?よそ者を(間者)を見抜く知恵だとか・・・・。
方言を大切にせねばね~。
うんでば(一如風)
駒木神楽をご覧になられたことがあるのですね。
平成元年に復活してから、地元駒木関連の行事が主で、一度か二度、水光園での神楽競演会に出たのみですから・・・・一部ですがビデオが残されておりますので、そのうちに動画にしてアップしたいと思ってます。
やはり、ましぇ垣ですよね。
母親は、言われればそのような的になってますが、未だに「わしぇ垣」とこだわっております・・・笑
標準語の私はよそ者と間違えられるかも・・・汗