経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

本来回帰へ

2010年07月09日 | Weblog
「情」で感じたものを理で捉えて対応する。
これが本来ではないか、と私は思う。

ちなみにそれ以外のあり方をパターン化し、示しおく。


1つは、理で捉え、情で対応。
2に、情で感じて、情で対応。
感情的になり突っ走る、
あるいは思いつきでとか、怒りにまかせて思わず、
といった言葉で表現されこうした例は時折見かける。

3に、理で捉えて、理で対応。
これは高学歴で実務経験が少ない、
いわゆる2代目、3代目に見かける。
人間のキビがわからない冷たい人と周囲からささやかれている人である。


上に挙げた3つのパターン。どれが本来、
という議論はあり得ない、と考える。

「情」で感じたものを理で捉えて対応する。

これが本来、主流であるからだ。

少し、かみ砕く。
「情」で感じたものを理で捉えて対応する。
これは、消費者との接点を持つ従業員が五感で感じたことを、
そのお客と共感、共有してこそ「対応」が出来得ることである。

マニュアルに基づいてとか、
ましてや経営者や店主へ伺いを立ててからとか、
会議で論議してからという次元の問題ではない。
そんなことでは多忙な消費の神様は他に走り去ってしまう。

そのそも戦略は共有、戦術は委ねる。
戦術の選択は現場の個々に委ねられる。
これがセオリーである。


そもそも本稿は
工業的発想、手法が、商業界にスライドしてきて、
商業が商業に沿う自前の理論、手法が希有である、
といったことに対する問題定義から始めた。


ここで再度確認しておきたいが、
工業界と商業界のそのどちらかがいいか、と
いった対峙・対立論、択一論には、私は組みしない。
それは定量情報と定性情報を択一することと同じで、
望ましいあり方とは言えないい。

私が、本稿で強く申し上げたいことの主旨は、
商業界自前の理論、手法を持たねば、ということ。
それには脱工業理論、手法し、
その後に本来帰り・本来回帰による
商業界自前の理論、手法をということである。


違うこと

2010年07月07日 | Weblog
「人は皆一人一人違う」という自明に理に逆行する
あり方にいかに正義を付加しようと権威でオブラート仕様と
消費者との乖離を生じさせた元凶に変わりはない。


その背景にあるものは「チェーンストア理論」である。


そうした自ら信奉する高邁な理論により忠実であろうと努力する者は多い。
が、自らが消費者との乖離を縮める方向への革新をしょうとする、
消費者の視点に立ち行動する商業者は、存外に少ないのが実態である。

私から見たらその理論が正しくとも、
それは消費者を背にする姿勢に違いはないのだ。

やはり商いは我が身を消費者におき、その位置から自らの姿勢を見る。
これが真のあり方と思う。

商圏によるニーズとその変化、時間経過に伴う二ーズの変化、
男女別・年代別によるニーズとその変化など、
様々な変化に焦点を当てて対応するといったことは、
その限界を意識しつつ不十分かもしれないが、
我々は必死の努力をしてきている、
といった反論は、当然ある。
それらは、大きく次の2つに要約できよう。

1-それらはマクロで潮流変化を捉え対処するのに、
ミクロを足して全体潮流とし、それを割り算して平均を求め、
その平気値に対して対応対策を打ち出すといったアプーローチである。
個々個別対応は理想であるが費用対利益を考えると採算に合わない。
だから平均モデルを使うしかない、といった考え方である。

2-しかも変化のスピードが速くなっていて、
情報を掴んで、対応した頃には、それらは過去になり、
また未来から新たなものが、この今に押し寄せるといったことで、
とても追いつかない状況である。
 
そうした考えに対して言いたい。
「だからこそ、考えそのものから変えなければならない」と。

次にその内容、申し上げたいことを骨太に言おう。
これまでの対応の主流は「理」である。
これをまずは、「情」先行。
そうした対応へ転換させることである。

複雑なかつ微妙な変化を即つかみ、
即対応するには、「理」では難しい。
人はまず五感で感じるからである。
端的にいえば、「情」で感じたものを理である。

理で捉えて、情で対応は、あり得ないことと私は思う。
「先情後理」なのだ。

いや私がどう思おうと、そうでなければ、
とうてい対応に無理である、ということである。


単純なんだ。

2010年07月05日 | Weblog
経済だけでなく政治的にも
大変な時、と言われています。
だれがそう決めたのか、
大変と大変でないときとを何を基準に決めたのか
私にわかりません。知りません。

かりにわかったとしても、
「その通り。私も従います」、ということにはならない。

そもそも、そういうことは、自分で決めたい。

自分で判断したい。
不景気を景気が良い。政治混迷を政治正常というのではない。

不景気、ならばこうしよう、ああしよう、と
自分にとって良い方向へもって行くということだ。

どこのだれかが不景気だといったから、不景気なのではなく
自分が不景気と感じ、本当に不景気と思ったら、
ああして、こうしてうまくいくようにもっていくよう考える。


マスコミや他の人の流すことを鵜呑みにしない。
かといってそうじゃないと頭から否定する、といったことではなく、
流されず自分できちんと受け止めはする。
しかし「ほんとうにそうかな」と自分の体感で検証、
そして、本質を突き詰めて、考えてみることが重要だ、と思う。


政治も経済も人が為しているものです。

この国は専門家のものじゃない。
この国は政治家や経済家が動かしているのではない。
国民、国民一人一人のもの。
国民が動かしているのだ。

そうしたものが複雑で難しいものであるはずがない。
政治にしろ経済にしろ人のやること。それに複雑にではなく、
うんと単純なもの、というのが私の理解だ。

たとえば、経営など実にシンプルです。
ハンディのない世界だ。
そしてどんな世界にも、通用する普遍性ある、

1に、繰り返すがすべからく人がやっていることだからだ。
2に、次の3つの公式で成り立っているにすぎないからだ。

  ○購買=売上
  ○売上=購買客数×購買額
  ○収入(売上)-支出(経費)=利益

上の3つを理解し、実践すれば誰でもうまくいく。


真贋見極め

2010年07月03日 | Weblog
著名人とそうでない人
身なりの良い人と、悪い人
美人とそうでない人
イケメンとそうでない人。
地位のある人とない人。
肩書きのある名刺を出す人と名刺を出さない人
大人と子供
王様と子供
国会議員と町議員・・・・・

こうした対比は無限にあるだろうが、
これを前者と後者どちらの方を信用しするか、
という質問をされたら、むろんケースバイケースなのだが、
ここは一般的にということで極く常識的には前者ではなかろうか。

そのことを痛烈に風刺したのがアンデルセン「裸の王様」である。

だからといって子供が嘘をつかない、といったことはない。
グリム童話の中にある「嘘をつく子供」の例がある。

これは『オオカミ少年』というタイトルで知られ、
少年の「狼が出たよ」という嘘に、村人がだまされる話である。

一般的、普遍的、常識的な見方が主流であることを背景に
なり立つのが、詐欺師の仕事であろう。
肩書きや権威を笠に着た犯罪も然り。

だが、国会議員は嘘つかない、という常識が崩れてくると、
国会議員の名刺を出されるだけでうさんくさく感じるようになってくる。
そうした兆候が政治不信という形で満ち始めてきた、というのが昨今。

そうしたことはさておいて、ここで言いたいことは、
虎には虎の衣装は不要ということ。

虎には虎の衣も威も不要という事実。
そうした真贋の見極めこそが、
一般市民である私たちに求められるということである。

もちろん恣意性があろうがなかろうが、人をだます人の方がよくない。
しかしそうした人の真贋を見極める眼を
持っておくことも、強く求められるのではないか。

ここまで書いて、随分以前にコラムに書いた話を思い出した。
再掲しておきたい。

昔、アンルイスという歌手が、徹子の部屋で語ったこと。
以下、彼女の話の概要。

売れない頃、背伸びをして、高価な宝石を身につけていた。だがだれも注目しなかった。親しい先輩が言ったそうな。
「アン。だめよ。あんなケバケバの安物、身につけていては。売れっ子になれないわよ.。無理してでも本物をみにつけなくちゃ」。

何年か後、売れっ子になった。彼女が身につけているのは安物の宝石である。
みんながアンに、こう言ったそうだ。
「アン、すごくすてきよ。あんな高価なもの身につけて。うらやましいわ」。
(この会話、田上の意訳)

子供の言うことと、大人の言うこと パートさんの意見と、営業部長の意見>
英国製78万のブランドスーツをきている紳士と、作業服の人の売る時計・・・・

さてさてどちらを信用するか、というのがアンから学んだこと。人は実ではなく、虚をみて判断してることが、わかる話である。

さて政治家はどちらか。政治家によって異なるのか。政治の舞台を、虚々実々の世界と思うことは、国民にとっては哀しく不幸なことである。


体験なくて実感なし

2010年07月01日 | Weblog
「おいしいですよ」、「健康にいいですよ」とか連呼する。
TVなどのCMもそう。

しかしこうしたことはお客の判断。
それを店員たちが勝手に決めつけている。
その判断すら店員自身の実感かどうか。
ほとんどは、そうではないだろう。

消費者には、そうした体感、実感のないセリフは、
売りたいがための絶叫にしか聞こえない。
へきへ期している。
それも皆判で押したように、どのお店でもそうした言い方をしている。

売り手から見たら、こうした無意味なことを給料を払って
店員に言わしめることが果たしてどれだけのメリット、効果があるのか
といった視点で見直して欲しい。

そのためには、自分でお客になり、
どこかの観光地のお土産品店街へ行ってみることをお勧めしたい。
昔も今も、おそらくこれからも見られる光景、
そこで貴重な体験、学びを得られることと思うから。

では、具体的にどう考え、どうしたらいいのだろうか。
考えてみたい。

1に、そうした言葉は、体感、実感があって発せられる言葉である。
前もって想定し、いわゆる聞いたようなセリフとは縁遠いものである、
という認識が必用である、ということだ。

2に、おいしいという実感を作り手、売り手と買い手が
共感、共有することが必定であるということである。

まだあるかも知れないが、上の2つ。
こうしたことを有史以来ほとんどの商人達が
なんら疑いも持たず、ごく当たり前の如く続けてきている。

それらが堆積し、徐々に消費者はお客店主や販売員が言うこと、
笑みもお愛想もお世辞もすばらしい接客もサービスも値引きすら
売りたいがためではないかと疑心暗鬼に陥り、
最近ではまず疑ってみるようになった。
売り手のすべての言動に不信感をもちだしているのである。

この不信感こそ、不振の元凶だと私は思っている。

ではどうしたらいいか。ことは簡単である。
1に、売り手側が、売るモノを消費者として体感、実感し、
その思いをそのまま消費者にお伝えする。これが1。
2に、食べ物であれば「どうぞ召し上がってみてください」と
実際にその場で食べてもらえばいいのである。