経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

見えないこととないこと

2009年09月06日 | Weblog
きっかけは平成に入った年。お盆の終わりのこと。

ある製造業、K社の再建をお手伝いした。
現経営者46歳。10年前先代から引き継いだ時の売上。
19億円少々。 経常利益は4%、優良企業といってよい。
翌年20億円を超え、これがピーク。以来減少一途。
私が御縁をいただいたときは、売上は半減していた。

おつきあいを始めて、不思議に感じたことがある。
それは、この社長の口から「消費者」と言う言葉を聞かないこと。
従業員も然り。パンフやHP、会議資料、社内文書にも。

わかったことは、社内に、消費者という概念そのものがないのだ。
この会社にとってお客様は、スーパーであり、ホテルや商店であり、
外食店、飲料店であり、給食センターであり。
これらを当社では、ひとからげで「客先(販売先)」と称していた。

もちろん言葉としては、「消費者」という言葉は皆知っていよう。
だが、自分の会社と消費者との関わりがあるといったことが、
認識されていないので、当然実感できないのである。


知らないのでは、ない。
忘れているのでもない。
無視しているのでもない。

そうではない。
最初から「消費者」の概念がないのだ。
「消費者? うちに関係ないや!」といった感じなのである。


人は、眼に入ったものでないと、見えない。
人は、見たものでないと、描けない。


なんで製造業である自分の会社が、
消費者のことを考えなければならないか、
消費者との接点を持たないから実感がわかないのである。

消費者のことはわかっても、自社の営業活動の中に、
組み入れる必要性は感じないのである。


どんな事業も消費者の購買決定という協力で
経営が成り立ち、自社が生きていけるという根本、
これを考えることなく経営に勤しむ経営者はごまんといる。
そのことは、それまでの私の体験で、実感できていた。

しかし、現実問題として第一次産業、第二次産業に属する企業には、
本来、そのままでは消費者接点がないのである。

「消費者相談室」といったセクションを設けられたとしてもだ。
自分が消費者である、ことすら企業では、忘れてしまうのだ。

毎朝唱和される、経営理念も、顧客第一主義も、
百貨店などできかれるエスカレータのあの言葉とおなじなのだ。

「よい子のみなさん。エスカレターでは遊ばないようにしましょう」。


とうりゃんせ

2009年09月05日 | Weblog
昨日の話を続けたい。


こんな事例がたびたびあるとか、
いつも何か得をしている、ということではない。

が、断言できることは、自販機でこうした対応を
してもらったことは一度もない、ということだ。

この自販機を「マニアル」や「定型文」と置き換えてみれば、
巷の商店街やWEB商店は、自動販売機だらけである。


手間暇をいとえば、「マニアル」や「定型文」。
自分都合を優先すれば、「マニアル」や「定型文」。
合理化、効率化には、「マニアル」や「定型文」。
人減らし、リストラには、 「マニアル」や「定型文」。

この作り手、売り手、自分にとってのプラスによって、

個別対応から遠くなる。
消費者との距離も遠くなる。
消費者接点を失う
五感共有できず。
消費者が、背を向ける。

こうしたマイナスが作り手、売り手、自分に
戻り矢としてふりかかりはじめた。
これが今、これから続く潮流。

この潮流そのものが、戻り潮流。
このポロロッカは、どこへ戻るのか。

原点、本質、起点、当然、当たり前・・・・
すべからく、こうしたところへ帰着する。

えさ代を惜しむのが釣り人の仕事か。
違う。
えさを投じて、みあう魚を釣るのが仕事。

人件費など経費を惜しむのが、経営か。
違う。経費を投じて、みあう売上を上げるのが経営。

なぜ、こうした主客転倒の流れができたのか。
なぜ、こんなおかしげな縛り、刷り込みに支配されるのか、
これぞ経営学、といった話も本も、
作り手・売り手良かれを、これ良し、こうやればうまくいく
この道、とうりゃんせ、とうりゃんせと、かしましい。
が、もう反面、片面、帰りは「こわい」は伏せる

        *
『通りゃんせ』
作詞・不詳 本居長世 編・作曲

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ




怖いながらも、私たちはもう一度
原点、本質、起点、当然、当たり前に
戻らなければならないのだ。

こんな話もある

2009年09月04日 | Weblog
ニーズが分散し感動の対象が
細分化しすぎると文化は形成され難し。

ニーズが分散し感動の対象が
細分化しすぎるとマスは形成され難し。

なぜなら、個々ばらばらが本来でひとからげは便宜上。

だからマスはいけない、と否定しているのではない。


常に、本来とか本質を意識していることが肝要。
そのことが潮流変化の対応を探る際のキーになるからである。

お客の一人としての私は、お店やカスタマーサービスへの電話やメールには、
必ず、相手してくれた人の名前を確認し、
その直後から固有名詞を呼ぶように努めている。

店員のみならず、事務職、公務員まで、
胸に名札をぶら下げている。
それは何のため?


電話を受けたら「はい。◎△の三坂です」と、名乗るのは何のため。

活かし、使うのが投資対効果を高める意味でもいいこと。
そうだろうと思い、私は、役場でもファミレスでも、宴会場でも
本屋でも、名札を見てその場で相手の名前を、やたらに使う

名札はぶら下げていても
名前を呼ばれたことはないのか、たいてい相手がびっくり。
けげんそうなそぶりをする人も多い。

名前を覚える意志はないから、もちろんその場限りである。
記憶しているのではなく、名札をみて会話に使っているにすぎない。

その結果。
本などで知識としては知っていたが、自分でわかったこと。
それは、固有名詞で対応すると、相手は緊張し、
そしてしっかりと対応してくれること。

私は、鶏が駄目なんです。
先週、鹿児島商工会議所の懇親会で、
それらしきオードブルが出たので念のため、
「木村さん、これ何の肉ですか」と尋ねた。

隣の人が、「お知り合いのお嬢さんですか」
「いや、いや」。これは、無視。

彼女はアルバイトらしく、「わかんない」といった顔をしたので、
「木村ともよさん、板場に聞いてきてもらえませんか」

飛ぶように行って、戻ってきた彼女は、「鶏だそうです」。

「木村さん、ありがとう。私は鶏が駄目でね。おかげで助かった」

同じことはメールでも然り。
メールでカスタマーサービスとのやりとりでも、
アドレスに相手の名前をいれて、やりとりする。
こんな話がある

ソフト会社のカスタマーサービス鈴木金八さん(仮名)の場合。

私の苦情は、ダウンロードで購入したソフトが
インストできない、といったこと。
メールのやりとり4回で解決。やれやれ。

「鈴木金八さん、ご指導ありがとう。おかげでうまくいきました」

それに対して、彼の返信メール。
それまでのマニアルのコピーの切り貼りではなく、彼のメール。

「インストできて良かったです。念のためCDを郵送しました・・」