経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

ブログ効用?

2009年09月22日 | Weblog
自分の最善の選択が、長い目で見るとただしくはないことも、
最近はぼろぼろでてきて、昔の自分のしたり顔の判断を苦笑しています。

そうした今の判断も、これから将来(さき)には、どうなのか。

まさに塞翁が馬。しかしそのことを気にして、判断を躊躇しては
人間は一瞬たりとも生きられないことになります。

としたら、「自分の判断はそんなもの」と
諦観するのがいいと思ったりします。

上の「塞翁が馬」では、他の人がとやかく言う形を取っていますが、
私はその他の人の中に、自分を含めて、
いな自分を中心にして、考えています。

おおよそ迷いとは、自分ともう一人、あるいはさらに何人かの
自分の中の他人との見方の違い、考え方の違い、
判断の違いではないか、と解しているからです。

その意味もで記録は、重要です。
とりわけ人生は、自分が自分を記録しておかなければ、
自分が死んだ後、自分の記録は他者による記録しか残らないからです。
他者の記録に、「この馬鹿」と記録されたら、私の一生、馬鹿。

もっとも、無名人私など、他者による記録さえ残らず、
死んだとたん、生きてきた証すら消えてしまいます。

「そんなん、かまへんやん。死んでからのことなど誰も知らんとええやん」

と言われる向きが多いのではと思います。私もそう思います。
だが同感、と相づちをうちながら、どこかに「それでもなぁ」といった
未練がましい気持ちは残るのです
「そぎゃん論理なら、墓や仏壇、いや葬式などもいらんのと違うと?」
坊さん、皆失業だ。


ここまできて、少し気がついたことがあります。
生きている人に死んだ人が残すのは、生きている人のためではないか。
それによって願わくは自分の生きてきた証を
生きている人の記憶に留め置きたい。

「それも今、生きているさかいいえる煩悩。ちがいまっか?」

そうした意見にも私は「じぁつど。そぎぁんじぁっど」とうなずいてしまう。

としたら、そうした煩悩こそ人が人であり、生きている証、
とこれまた容認することじゃないかと思います。

いやいや、すいません。
朝から抹香臭い話になりましたが、
キーボードに向かったときは、ブログやメルマガについて
書くつもりだったのです。それが連想が飛躍しまして。

で、リセット。戻します。

考え、思いは皆消えますが、これを記録に残す意味で、
ブログやメルマガは、実にいい。
私はこうした時代に生まれたことを、実に運が良い、
恵まれた、と本気で感謝すること、しばしばです。

ならば、それを最大に生かさない手はない。
ここで最大とは、費用対効果からみて最高、最大の利という意味です。

投資、費用が低減、ほとんどかからないことに甘えて、
あるいはこれまでの常識に囚われて、
効果に大きな期待を寄せていないのでは?ということ。
それを,書きたかったのです。

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