経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

赤福、君もか。

2007年10月12日 | Weblog
 白い恋人に、続いて、今度は赤福。
 
  伊勢の土産物として知られる「赤福餅」を製造する老舗和菓子店「赤福」(三重県伊勢市)が、製造年月日を偽って表示、販売し、JAS法違反の疑いがあるとして、農水省が先月中旬から同社に立ち入り調査。
 同社は製造した赤福餅を低温保存し、製造年月日を偽装。同時に賞味期限も偽って表示していたという。長期にわたり同様の方法で偽装していた。


 沖縄帰りの眠い目をこすりながら、歯磨きしていた耳に、これは私に取ってはショッキングなニュースが入ってきた。
 
 お菓子を纏めて製造し、それを急速冷凍保存。出荷の都度解凍、といったありかたは、私はしばしば、あちこちのお菓子製造工場を視察し、知っている。
 問題は、製造日ではなく解凍した時点を、「製造日」として、出荷したこと。ましてや賞味期限まで偽っていたのなら、これは犯罪である。

 あの赤福が。なんで?と驚いた。

20代の頃、妻と旅をして、伊勢の「赤福」に立ち寄った。
あまりにもおいしかったので御土産に注文したら店員さんは、申し訳なさそうに「あいにく赤福は、特に日保ちが悪うございます。それに出来るだけ作り立てを食べていただきたいので、ご旅行の途中でいらしたら、お召し上がりの直前に着くようお送りさせていただきますが」といわれて、感激。以来、赤福ファンになった。

 それから30数年後の H10年10月だったか。中小企業大学校直方校の人気講座「あきんど大学」に、「赤福」の元専務平居 肇(常勤監査役)さんを事例企業のメイン講師にお招きすることができた。
 
 「2日しか日持ちしない赤福だからこそ、ここまで続いてこれたし、これからも続く、と言い切る」平居さんの話は、淡々としていたが、一種の凄みがあり、受講生に感動を与えた。

 平井さんの話を聞きながら、我が鹿児島の「かるかん」はどうであろうか、つけ揚げ(さつまあげ)はどうであろうか。
 を考えていた。

 社名も店名も知られた著名店だが、伏せる。友人のOさんが、鹿児島に観光できて、老舗のかるかん屋さんで「これ何日間ぐらい大丈夫ですか」ときいたら、女将さんらしい人が、胸を張って「真空パックですから、20日間は、おいしくいただけますよ」と答えたので、驚いて買うのを止めた,ことを話してくれたが、わたしは、その老舗が日持ちを誇るあり方に、県民の一人、として恥ずかしかった。
 
 かるかん屋の女将は、おそら、なぜ突然お客が買うのを止めたか判っていないだろう。食べる身にならなければ判らない。判らないでものを作っているのでから、やがて売れなくなる。
 事実、江戸時代から続いていたその老舗は、数年後、長い歴史を閉じた
 そうした企業は、売れなくなった理由すらもおそらくわからないままで、消えていくのである。

 お菓子屋さんだけではない。生ものを扱うお店を指導するとき、私の頭にあったのは、「日持ちの短いことに、誇りを持つ」あの赤福の姿勢であった。

 あの赤福が、白い恋人に続き、消費者を裏切ったのである。どうか、こんな馬鹿な紅白合戦、あかんことやめて欲しい。2007/10/12

学習

2007年10月10日 | Weblog
私たちは、他者の、他社での事件発生のたびに、人間として義憤を漏らし、そのときには非難したり、居酒屋での肴にしたりする。不思議なことだが、あるいは表面的にはであろうか、同情の声を聞くことは稀である。

これは、実際多くの会社の社内に立ち入った訳でもなく、極く一部の朝礼などへ参加した範囲で物申すことだが、「我が社でも同様の問題があるかも知れない。一斉に調査をして欲しい」と、トップなりが厳命し、この際他山の意志で我が社でも発生する可能性をつみ取っておこう、といった姿勢もまた、あまり聞かないのだ。いかがだろう。

恐らくは、「それ他山の石、我が社は関係ない」といったことか。
あるいは「我が社で問題にして、そうしたことがあったら、わしの首はいくつあってもたりん」といったことか。

はて?。

そして自らが当事者になったら口をつぐむ。ツグミ切れなくなったら、まず広報担当が登場。それで収まらないと見たら、関係役員がおずおず。それでも、となって、やっと社長以下、役員が勢揃いし、「世間を騒がし、消費者には多大な迷惑を・・・まことに遺憾なこと。2度とこのような・・・。」と、以下同文どころか、「全部同文」を読み上げ、バッタお辞儀。そして、質問を断り退席といったパターン。
この繰り返しが、「二度も三度もと、このようなこと」を起こしているのである。

経営者としては実に、「もったいない話」だと、私は遺憾に思っている。せっかく他社・他者が、自社に先んじて、一石投じ、存亡に関わる事例を示してくれたのである。まさに先進事例そのものなのが、只で活かせるのである。

ちなみに、学習には、いいことを学習するという側面と、反面教師として、失敗から学び取る、という側面の、両面がある。赤ん坊の無に近い体験から、大人になるまで、どちらかというと、後者により、より学んできたというのが定説である。

ならば、経営者。
世間で事件が起きるたびに、それらが反面教師として、自動インストロールされ、我が社が強くなる。そして、自社が未来永劫的に存続し続ける(ゴーイングコンサーン)企業の礎(いしずえ)を積み重ねる。こうしたことで、常に他山の石として、自分の戒めとして、わが身やわが社を振り返って、組織改善を計る、良き体質作り、良き習慣づくりの強化の契機にする体質、シクミを作る、といったたくましい戦略を持とうよ。

他社、他者での間題を、現実の自分の問題として取り込み、その痛みを感じることが、人の知恵、謙虚さであり、死を誘う魅惑から逃れえる最高の秘策、戦略だ、といった経営者として、企業としての、「しぶとさとたくましさの発揮」が、私は重要ではないかと考えている。これはまた、ひいては企業犯罪が減少することになり、大きな社会的損失の圧縮に貢献することになる。

申すまでもなく、企業論理の根本は損得である。これ自体は悪ではなく善でもない。排斥するものでもないし、してはならない。
だから、この論理に、倫理を負いかぶせることには、無理がある。お湯を氷の器に盛るが如し、といったら言い過ぎになろうが、むしろ突き詰めて、「ほんとうに、長い目で見てどちらが企業にとって損なんか、得なのか」の見極めさえ、出来れば企業犯罪はずいぶんと減少する、と思うのである。
これは、物事の判断を長いスパンでみる、という戦略の根本である。


花と団子

2007年10月08日 | Weblog
企業で様々な事件が起きるたびに、企業倫理が問われる。それは、事件を起こしたの企業であり、経営者や従業員ではない。うちの企業には倫理がない。それは遺憾なこと。だが企業は頭を下げないので、替わりに謝る」といった感じがしてならない。一方マスコミも、企業に倫理を教え込まなければ人間が迷惑する、といった論調である。
 おかしくてしょうがない。

この論理だと、車による交通事故での責任は車だ、ということになる。ピストル強盗の犯人はピストルであり、そのピストルは殺人鬼だったということになる。

実のところ人間と違い、頭も手足も口も耳目も、心も感情も、血も涙もない企業が、そうした事件など起こしようがない。起こしえないものに、責任も原因もない。倫理の欠如もへったくれもない。企業に倫理感をいうのは、食器に清潔感を教えることと同じだ。
 すべからく人間が判断し行ったことである。それを企業に責任転嫁して、「遺憾」と、頭を下げているのだ。

 経営者ないし、組織ぐるみなら組織に所属する人間が判断し為したことである。そうした人たちの倫理観が欠如していたというのなら、わかる。

わかるが、私は、倫理観の問題ではなく、人間として「そうしたことを為した方が、世のため、人のため、企業のため、自分のために、長い目で見て得だろうか、喜ばしいことだろうか」、という意志決定の問題であると考えている。
 少なくともそうしたとらえ方が、そうした不幸な事件を少なくできるのではないか、と思うのである。
 
 道徳や倫理の話にしてしまうから曖昧になり、繰り返されるのではないか。談合事件などまさにその典型的事例だ。ばれなければ、絶対得。ばれるリスクを計算しても、差し引き談合した方が得、と判断できるから、確信犯としてやっている。だから、やまない。継続が儲かるからだ。これは花より団子の論理問題であり、倫理ではけして怪傑できないことは明らかである。

 だから、ここは「なぜそうした企業存亡の危機を賭してまで消費者を裏切り、背を向けさせる言動をとるのか」、さらに「その結果、企業の業績は落ちるし、あなたの地位も危なくなる。どうしてそんな損と不幸を招くとわかっている決断をするのか」、と持っていけるようにしなければならないのである。企業犯罪をしたら、絶対損。しなかった方が絶対得、というのなら、リンリ、リンリと音がしようがしまいが、やらない方を選択する。

 私なら、さらにくどくどと追い打ちを掛けて、「企業の命取りになる馬鹿なことをして、どうするの?」。「大切な自分の人生を反故にしたのでは、間尺に合わないではないか」と、企業の論理、採算の論理で、冷厳に考えてみて欲しいと、紙と電卓、鉛筆を与えて、計算させ、はなから問う。「花と団子、どっちが得になりましたか」。

 まともな経営者なら、いや人間なら、自らの破滅、所属する企業の破滅を、自ら招くことこそ、自分たちの信条としている「採算の合わない投資は見合わせる」という企業の論理に合わないことはわかるはずである。
 まっとうなら損することを決断するはずがないのである。かねがね思っていること為していることが違うことだから、誰が考えても論理矛盾、自己矛盾には気づいているはずである。

 結局、そうした人たちは、そもそもまともな判断が出来ない人か、あるいは経営のイロハ、企業論理を知らない無知人といった方が正解ではないのだろうか。
 だから、倫理の勉強ではなく、判断学、戦略論、人間学の基本のお勉強を、ぜひとも勧めたいのである。

 そこでPR.私の所では、脳力経営塾という、それら全部を短期間で修得する塾を開いている。
 判断ミスを起こさない前に、ぜひご決断を。

ささやき

2007年10月07日 | Weblog
企業論理に代わる概念として「消費者中心主義」を考え、提唱している。
爾来、企業論理は対立構図上に存在している。企業と消費者を対立でみるから、判断のさい、どちら有利を択一するかといえば、経営者は間違いなく消費者を捨て、自分の企業を採る。顧客第一主義を唱えている企業でも然りであろう。
 だからといって企業を責めることは出来ない。対立の論理下では、消費者だってそうなのだから。

 そこで、対立しない企業論理を仮説的に考え、これを「消費者中心主義」と名付けた。わたしの頭の中で、小さく産まれたカラッポの、この概念は、ご縁を頂き、賛同し取り入れて下さった経営者の方々の育みを滋養に、15歳に成長した。

 「消費者中心主義」は、とかく「お客様第一先主義」とか「顧客満足」といっしょくたにされる。こちら、私のネーミングが後発だから、苦笑せざるを得ないが、企業の論理に内包されるそれらとは、全く異なる概念である。
 こっちの岸にいて、あちらの岸を考えるのではなく、あちらの岸で、こちらを考えるのだから、見える景色そのものが全く違う。

 この概念の根本の1として、「我が身、企業中心の論理では事業も自分も人も幸せにはなれない」を挙げたい。

 人の幸せを心底から念じ、そのための営み行動することで成り立つのが企業の本質と考えるからである。だから消費者の幸せと喜びに思考と行動の基準を置きさえすれば事業は健やかに伸びていける、という確信が仮説としてある。この仮説の検証、証明が、以来私のライフワークとなっている。

 それを自らの生き延びのために、いわば事業の命綱にも等しい消費者を、裏切り、だまし、不安に陥れて、そして自らの企業の生命を、自ら絶つ浅はかな有り様は、まさに癌細胞そのままではないか。

 消費者を裏切り、消費者に害悪を加える企業を消費者は必要としないし、迷惑な話であるの だから、さっさと自滅すればよいのだが、これらが延命を図るプロセスで世間や消費者を巻き込むから、問題は大きくなることがしばしばだ。

 だが毎日のごとく報道され、新聞紙上に登場している企業の不祥事に内包される因は、決して、特殊・固有、希有のものではない。大なり小なり、そして濃淡はあっても、いかなる組織に内包されている普遍性的なものであると、見た方がいい。

 もとより企業にそうしたものが存在するわけない。会社が人を首にしたのではなく、会社の人間の誰かが首にしたのである。日付の詐称を、「それよし」、と企業が判断した、といったことは絶対にあり得ない。企業内の誰かが、「それよし」と、したのである。

 そう考えると根本には、人がもつ哀しい性(さが)的なものが起因しているといえる。だからひとつ間違えば誰しもやらかしかねない魅惑あふれる誘惑になる。

 その誘惑は、こうした囁き(ささやき)に始まる。
「もしバレなければ、会社の業績へ貢献。自分の成績も上がる。まるまる得ではないか」。

 だから露見しなかった企業では、その企業の業績は上がり、彼ないし彼女のその行為は「勲章モノ」のはずだ。
 ばれないが当然。ばれたが運が悪い、という「かってな天動説的、自分中心の思いこみ」こそ、人の判断を狂わし、不幸を招く元凶、悪魔の愛のささやきである。(以下、次の稿)   

首相の信頼

2007年10月06日 | Weblog
「おれが自民をぶっ壊す」、
「美しい国、日本」
「協調と信頼」

 
 「信頼されるか、されないか」、に関して、以下、5つの視点で考えてみたい。
 
 1に、 その人が信頼される人か、ということである。
 信頼は、言葉ではない。言葉を吐いた人に、言葉を吐いた総理や大臣に。言葉を吐いた代議士に、言葉を吐く経営者に、言葉を吐く商人に、言葉を吐く、あらゆる「個たる人」に、人間として信頼されうるか。つまり、端的に言えば、人の問題として問われなければならない問題を、無意識あるいは意識して、人は総理、大臣、代議士、経営者、商人、といった肩書きや看板と「言葉」へ転嫁しているからである。「あの人は、政治家として、少し問題じゃない?」、といった言い方で理解されるように、それを見ているほうもまたそうである。

2に主語がない。動詞がない。
名詞と形容詞だけでは、行動にならない。行動にならなければ、変わらない。信用が失われたのは、失うようなことを為した主語と為したという動詞があったから、結果が出たのである。それを取り戻すのにもまた主語と動詞は不可欠なはずである。だから「二度とこのようなことがないように・・・・」といっても、何度でも繰り返されるのである。」

 3に、戦略がない。
わかりやすくいいけるなら、戦略とは打撃の方向である。言葉が空気に終わって、流れがない。流は方向性と時間軸で構成されている。 つまり言葉に方向と時間軸がない、小泉さんと、福田さんの所信表明を比較すれば、この点が一番顕著である。国民に行き先、目標が示されないのでは、言葉は国民の行動になりようがない。従業員に行き先、目標が示されないのでは、言葉は従業員の行動になりようがない。

 4に、内向きである。
 政治は1人では出来ない。自民だけでは出来ない。だから、民主党への協調を、という呼びかけは内向きである。談合である。この内輪の談合で戦争は開戦されてきた、といってよい。 政治は政治家のものではない。永田町の外の国民の支えこそ不可欠なのである。言葉が内向きとは、身内、永田町内向け、ということある。福田新総理の所信表明は、まさに内向け配慮が配慮されていた典型的モデルであった。

5に、人間性である。人間性といえば大きすぎるので、絞って示してみると、「落差、あるいは裏表」。
 かねがねは横柄で、選挙が近くなると土下座。美しい、と唱えながらその内閣で領収書などを巡る、といった汚さ。永田町では立派なことを言っているが、地元に帰ると法に触れるを厭わずし資金集め。
先月、このブログで、企業犯罪を起こした某社の十訓を紹介した。ここの会長は、言うこととやること違う、といった思いがする。こうしたものが人間性である。

                   *
 この5つで、森さん、小泉さん、安倍さん、福田さんと続く、同じ派系の4人の総理の言動を、信頼というキーワードで見てみると、おおよそのことが掴めるのではないか。
 信頼は、「言」と「動」、すなわち、「言+動」、「言=動」により醸成される、と私は考えている。


不信感

2007年10月05日 | Weblog
誰を、何を信じていいかわからない、といった不信感が講じて、経済面の不振を呼ぶ、と以前,ここにも書いた。

 総理の突然の政権放棄、政治家の政治資金問題、大手企業の企業犯罪、食品の偽装表示事件・・・、次々と国民が、信頼そのものに疑心を持ち始めている事件が起き続けている。

 だからこそ、人々は心のどこかで信頼できる人、ものに飢え求めている、といえるのではないか。とりわけ地方郡部の住民達は、実のところ顔も見たことのない知らない経営者がケイエイしている、よそから進出してきた大型店、それもセルフサービスと称して口も聞いてくれないお店に、親しみなど感じるはずがないのだ。合理化を極めていくと、物と金の交換。流れる音はPOSとそれと見まがう金属声。

 消費者としては、本当は身近な地元の街で、昔から見知っている人のお店で買い物とついでに世間話やうわさ話ををしたいのだ。そうしたことができることこそ、なにも、こと改めて「フレンドリー」などとカタカナで言わずとも、親しみが持て、信頼できる証なのではなかろうか。
 
 そうは遠くない所に、コンビニが出来た。それでも子供達が、小遣いをもらったら真っ先に駆け込むお店は、これまでのお店だ。

 「だって、知っているおじちゃんとおばちゃんがやっている店だもの」。(このセリフは、先月このフログで触れた)

 この子供達のセリフが何を意味するか。もう少し補足説明を要するだろう。
 コンビニには明るい挨拶、立派な接客6大用語がある。だが、名前を呼んでくれるわけではない。頭をなでたり、からかってくれたり、運動会の成績を褒めてくれるわけでない。罰点でしよげている子を励ましてくれるわけではない。

 大人を嫌っているように見える子供達は、内心、人間的な接点を求めているのだ。そう考えると、逆に街から、この街のお店から、地元の人たちの心が離れていった理由もわかるのではないか。
 
 消費者が、地元店に求めていた「もの」が、いつのまにか大型店並みに希薄になってきたのではなかろうか。そうなると、地元の小さい商店は、地元故に、小さいが故に、うっとうしい人間関係だけが際だってくる。それは消費者接点を希薄にすることで、さらに加速する。よそよそしくなった地元の街の商店は、消費者から存在すら認識されなくなったのではないか、と私は考えたりする。
 
 もちろん郊外にマンモショッピングセンターなど郊外店などが出来たことが、大きな直接的理由ではあろうが、それすら、「近くのお店が、もっとしっかりしてくれたらこんな遠くまで買い物に行かなくて済むのに」といった、地元の消費者の声なき声を吸う上げる力の失ったことに起因してはいないか。すくなくとも人心が離れていったことと、まったく無関係ではあるとは私には思えないのである。

博多の夜は更けて

2007年10月02日 | Weblog
博多商人塾はH2年に開始された。今年で17回。
福岡市と福岡商工会議所合同の、商人のための1年コースの塾である。受講生も1年ごとに変わるが、講師も毎年入れ替えである。

 私は、第3回に初めてご縁を頂いた。以来、15年間、ずっとお招きいただいている。
 このことは、私の誇りである。担当の方はほぼ3年年で交代されるから、転勤の引き継ぎに申し送りがない限り、このようなことは起きないのである。それに他の講師はほぼ福岡県。

 それに私の出番は、ピンからトリを、交互である。昨年度、今年と2年続いてトリ。どちらかというとトリの方が好きだが、懇親会の料理に博多特産の鶏がでるのはもう、想像するだけでいやである。それが今年はデタのだ。申し送りの記載漏れ?(泣)

 15年、15回で、一番手応えを感じた。自分としては、内容を広げすぎるなど、余りいい出来ではなかったから、これはひとえに今年の受講生の皆さん方の質が高かったせいである。
 とりわけ聞き上手の人が多かった。大きくうなずき、顔だけではなく身体を上下する人もいた。それに私の唯一の特技、オジンギャグの打率が高く、8打席、7笑1敗だった。
 
 懇親会ほぼ全員の参加。2次会も8人。こんなことは5年前に1度経験して以来である。
 意を決し、あるいは調子に乗り、懇親会も2次会も、講演の続きを話したが、それをいやがるどころか、みな身を乗り出して聞いてくれるのだ。お陰で私の酒と時間が進む。気がついたら、1時(真夜中のですぞ)を回っている。

 4人ほどの仲間に定宿のルートインまで送っていただいた。
 そのときは気がつかなかったが、どれだけ自分が酔っていたか。それは朝になって、携帯を開いて気づいた。電源を切るつもりで、WEBサイトを開き、寝入ったらしいのである。何か訳のわからない、動画で、アニュメがピョンピョンとはねていたので、あわてて電源を切った。
 完全に閉じていなかったから5時間余、料金が加算される。

 お陰でキョンと酔いが覚め、朝の食事はいつもよりおいしかった。二日酔い全くなし。