経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

不信感

2007年10月05日 | Weblog
誰を、何を信じていいかわからない、といった不信感が講じて、経済面の不振を呼ぶ、と以前,ここにも書いた。

 総理の突然の政権放棄、政治家の政治資金問題、大手企業の企業犯罪、食品の偽装表示事件・・・、次々と国民が、信頼そのものに疑心を持ち始めている事件が起き続けている。

 だからこそ、人々は心のどこかで信頼できる人、ものに飢え求めている、といえるのではないか。とりわけ地方郡部の住民達は、実のところ顔も見たことのない知らない経営者がケイエイしている、よそから進出してきた大型店、それもセルフサービスと称して口も聞いてくれないお店に、親しみなど感じるはずがないのだ。合理化を極めていくと、物と金の交換。流れる音はPOSとそれと見まがう金属声。

 消費者としては、本当は身近な地元の街で、昔から見知っている人のお店で買い物とついでに世間話やうわさ話ををしたいのだ。そうしたことができることこそ、なにも、こと改めて「フレンドリー」などとカタカナで言わずとも、親しみが持て、信頼できる証なのではなかろうか。
 
 そうは遠くない所に、コンビニが出来た。それでも子供達が、小遣いをもらったら真っ先に駆け込むお店は、これまでのお店だ。

 「だって、知っているおじちゃんとおばちゃんがやっている店だもの」。(このセリフは、先月このフログで触れた)

 この子供達のセリフが何を意味するか。もう少し補足説明を要するだろう。
 コンビニには明るい挨拶、立派な接客6大用語がある。だが、名前を呼んでくれるわけではない。頭をなでたり、からかってくれたり、運動会の成績を褒めてくれるわけでない。罰点でしよげている子を励ましてくれるわけではない。

 大人を嫌っているように見える子供達は、内心、人間的な接点を求めているのだ。そう考えると、逆に街から、この街のお店から、地元の人たちの心が離れていった理由もわかるのではないか。
 
 消費者が、地元店に求めていた「もの」が、いつのまにか大型店並みに希薄になってきたのではなかろうか。そうなると、地元の小さい商店は、地元故に、小さいが故に、うっとうしい人間関係だけが際だってくる。それは消費者接点を希薄にすることで、さらに加速する。よそよそしくなった地元の街の商店は、消費者から存在すら認識されなくなったのではないか、と私は考えたりする。
 
 もちろん郊外にマンモショッピングセンターなど郊外店などが出来たことが、大きな直接的理由ではあろうが、それすら、「近くのお店が、もっとしっかりしてくれたらこんな遠くまで買い物に行かなくて済むのに」といった、地元の消費者の声なき声を吸う上げる力の失ったことに起因してはいないか。すくなくとも人心が離れていったことと、まったく無関係ではあるとは私には思えないのである。