経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

学習

2007年10月10日 | Weblog
私たちは、他者の、他社での事件発生のたびに、人間として義憤を漏らし、そのときには非難したり、居酒屋での肴にしたりする。不思議なことだが、あるいは表面的にはであろうか、同情の声を聞くことは稀である。

これは、実際多くの会社の社内に立ち入った訳でもなく、極く一部の朝礼などへ参加した範囲で物申すことだが、「我が社でも同様の問題があるかも知れない。一斉に調査をして欲しい」と、トップなりが厳命し、この際他山の意志で我が社でも発生する可能性をつみ取っておこう、といった姿勢もまた、あまり聞かないのだ。いかがだろう。

恐らくは、「それ他山の石、我が社は関係ない」といったことか。
あるいは「我が社で問題にして、そうしたことがあったら、わしの首はいくつあってもたりん」といったことか。

はて?。

そして自らが当事者になったら口をつぐむ。ツグミ切れなくなったら、まず広報担当が登場。それで収まらないと見たら、関係役員がおずおず。それでも、となって、やっと社長以下、役員が勢揃いし、「世間を騒がし、消費者には多大な迷惑を・・・まことに遺憾なこと。2度とこのような・・・。」と、以下同文どころか、「全部同文」を読み上げ、バッタお辞儀。そして、質問を断り退席といったパターン。
この繰り返しが、「二度も三度もと、このようなこと」を起こしているのである。

経営者としては実に、「もったいない話」だと、私は遺憾に思っている。せっかく他社・他者が、自社に先んじて、一石投じ、存亡に関わる事例を示してくれたのである。まさに先進事例そのものなのが、只で活かせるのである。

ちなみに、学習には、いいことを学習するという側面と、反面教師として、失敗から学び取る、という側面の、両面がある。赤ん坊の無に近い体験から、大人になるまで、どちらかというと、後者により、より学んできたというのが定説である。

ならば、経営者。
世間で事件が起きるたびに、それらが反面教師として、自動インストロールされ、我が社が強くなる。そして、自社が未来永劫的に存続し続ける(ゴーイングコンサーン)企業の礎(いしずえ)を積み重ねる。こうしたことで、常に他山の石として、自分の戒めとして、わが身やわが社を振り返って、組織改善を計る、良き体質作り、良き習慣づくりの強化の契機にする体質、シクミを作る、といったたくましい戦略を持とうよ。

他社、他者での間題を、現実の自分の問題として取り込み、その痛みを感じることが、人の知恵、謙虚さであり、死を誘う魅惑から逃れえる最高の秘策、戦略だ、といった経営者として、企業としての、「しぶとさとたくましさの発揮」が、私は重要ではないかと考えている。これはまた、ひいては企業犯罪が減少することになり、大きな社会的損失の圧縮に貢献することになる。

申すまでもなく、企業論理の根本は損得である。これ自体は悪ではなく善でもない。排斥するものでもないし、してはならない。
だから、この論理に、倫理を負いかぶせることには、無理がある。お湯を氷の器に盛るが如し、といったら言い過ぎになろうが、むしろ突き詰めて、「ほんとうに、長い目で見てどちらが企業にとって損なんか、得なのか」の見極めさえ、出来れば企業犯罪はずいぶんと減少する、と思うのである。
これは、物事の判断を長いスパンでみる、という戦略の根本である。