経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

首相の信頼

2007年10月06日 | Weblog
「おれが自民をぶっ壊す」、
「美しい国、日本」
「協調と信頼」

 
 「信頼されるか、されないか」、に関して、以下、5つの視点で考えてみたい。
 
 1に、 その人が信頼される人か、ということである。
 信頼は、言葉ではない。言葉を吐いた人に、言葉を吐いた総理や大臣に。言葉を吐いた代議士に、言葉を吐く経営者に、言葉を吐く商人に、言葉を吐く、あらゆる「個たる人」に、人間として信頼されうるか。つまり、端的に言えば、人の問題として問われなければならない問題を、無意識あるいは意識して、人は総理、大臣、代議士、経営者、商人、といった肩書きや看板と「言葉」へ転嫁しているからである。「あの人は、政治家として、少し問題じゃない?」、といった言い方で理解されるように、それを見ているほうもまたそうである。

2に主語がない。動詞がない。
名詞と形容詞だけでは、行動にならない。行動にならなければ、変わらない。信用が失われたのは、失うようなことを為した主語と為したという動詞があったから、結果が出たのである。それを取り戻すのにもまた主語と動詞は不可欠なはずである。だから「二度とこのようなことがないように・・・・」といっても、何度でも繰り返されるのである。」

 3に、戦略がない。
わかりやすくいいけるなら、戦略とは打撃の方向である。言葉が空気に終わって、流れがない。流は方向性と時間軸で構成されている。 つまり言葉に方向と時間軸がない、小泉さんと、福田さんの所信表明を比較すれば、この点が一番顕著である。国民に行き先、目標が示されないのでは、言葉は国民の行動になりようがない。従業員に行き先、目標が示されないのでは、言葉は従業員の行動になりようがない。

 4に、内向きである。
 政治は1人では出来ない。自民だけでは出来ない。だから、民主党への協調を、という呼びかけは内向きである。談合である。この内輪の談合で戦争は開戦されてきた、といってよい。 政治は政治家のものではない。永田町の外の国民の支えこそ不可欠なのである。言葉が内向きとは、身内、永田町内向け、ということある。福田新総理の所信表明は、まさに内向け配慮が配慮されていた典型的モデルであった。

5に、人間性である。人間性といえば大きすぎるので、絞って示してみると、「落差、あるいは裏表」。
 かねがねは横柄で、選挙が近くなると土下座。美しい、と唱えながらその内閣で領収書などを巡る、といった汚さ。永田町では立派なことを言っているが、地元に帰ると法に触れるを厭わずし資金集め。
先月、このブログで、企業犯罪を起こした某社の十訓を紹介した。ここの会長は、言うこととやること違う、といった思いがする。こうしたものが人間性である。

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 この5つで、森さん、小泉さん、安倍さん、福田さんと続く、同じ派系の4人の総理の言動を、信頼というキーワードで見てみると、おおよそのことが掴めるのではないか。
 信頼は、「言」と「動」、すなわち、「言+動」、「言=動」により醸成される、と私は考えている。