経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

システム

2004年11月21日 | Weblog
人間は、神仏と違って、不完全であることをもって生きることを前提に、作られています。
不完全だからこそ学び補う必要がある、という風にほとんどの人が受け取られていますが、これは違う、という説があります。なぜなら人間が完全を目指せば、他人を必要としなくなり社会システムが崩壊する。またこれは神仏に近似することで、神仏が嫉妬するので、そのため人は早死にする。こうした説を、もう20年近い前、産能大経営学部教授 石尾登先生の遺稿「片の哲学」で知ったとき、驚きました。そしてその瞬間「システム」の意味が理解でき、躍り上がって感激したことを覚えています。
 この生命システムといわれているものが、モデルになって企業のシステム、組織という概念ができていることが理解されたからです。

 人の生き方そのものが社会システム。すなわちお互い不完全な同志が有機的に結合し(助け合って生きていくように作られている、という理解です。つまり自分が完全な人間になるのでなく、不完全だからこそ、繁栄のために男は女が必要とし、女は男を必要とする、ということです。
 他人、友達や仲間や社員と、有機的結合を計ることが、生きる上にも企業の繁栄と長生きにとっての根本なのです。これが生命システムの概念だと私は理解しています。

 こうした理論を背景に論を考えると、友達の多いことこそ、その意に添えることになる。つまり極論をういえば成功は、友人の数と質による、といえる、ということです。だから閉じこもり系の会社は、うまくいかなくなる。「俺が俺が」の人もうまくいかない。「自分中心の人」も、うまくいかない。「友達の少ない人」もうまくいかない。人は総て有機的システム、社会システムに組み込まれていますから、たとえばドタキャンはドミノで思いがけない人、思い掛けない人まで、多大な影響を与え、一つのつながりが分断されることで、総てが崩壊しかねません。これは数珠のヒモが切れたことを思い浮かべて頂ければわかりやすいと思います。

  あるいは、落語の与太郎が、なぜ長生きするのか。あるいはまた白圭が、死の床で,「助けた人が、助けられた者によって生きることが出来たのだ。」と孟醤君にいって逝ったのか。根拠はすべてここにあるような気がします。

 そういう意味で、私の周囲を見ると、若いときに勉強よりも、いっぱい遊び友達がいっぱいる人が成功している人がほとんどです。これからでもおそいことなどない。支える、支えられる気をおけない友達をいっぱい作って欲しい、そういう願いを込めて、この文章を書いています。