私は、道徳とか倫理、宗教の論理と資本主義とは対峙関係にある。つまり相容れないものである、と思っています。ですから、あくまで永続的に儲け続けるためにどういう理念をもったらいいか、というスタンスで経営や人を見ています。
一時的な優しさは結局は人を殺し、経営、国すらダメにすることは、歴史が証明しています。。
このことを思えば、千丈の谷に我が子を突き落とす。旅をさせる。その方が真の愛です。人生は長さなのだから、その瞬間の好悪、善し悪しで判断してはならないのである。だから、儲ける、でなく「儲け続ける」、というのが戦略で、そのために相手がそのときに好悪するか善し悪しとするか、喜ぶか悲しむか、そうしたことでなく、言う、行う。その内容が砂糖であろうと辛子であろうと、そういうことは全く別の問題である。
要は最終的に相手に喜んでもらう。感謝されるところに、心しているかどうかである。昔の真の臣は、死を賭して、王に諫言した。王からどう思われるかでなく、いい王に成って欲しくて。あるいは愛する国のが続いて欲しいために、だ。
ところがたいていの取り巻きは、甘言を弄し、主と国(会社)を滅ぼしてしまう。後者の彼らこそ偽善者である。あえて嫌われても言う。これこそ真の人材。いい技能をすれば人材と思ったり、イエスマンを可愛く思うようであれば、経営者やめたがいい。
だがあえて嫌われるように言う必要もない。また諫言が理解できないような人に言っても意味がない。昔とちがって、今は「去る」ということが出来るのだから。こうしていい人が去り、悪い人が経営者を取り囲むことになる。ハテ、あなたのところはどうだろう。
人生は人気取りではないのです。
嫌われようと好かれようと、といったことを意識することなく、言動出来る。。また痛い話を痛いと感じても傾聴できる人間、そうした人、そうした職場風土をつくる、そうした真の本当の「経営者」をめざしてほしい。
もう一度言う。偽善者とは、甘言を喜ぶ経営者に、甘言を弄する人のことを言います。
ところで冒頭に書いた、宗教、とくにキリスト教は、商売、資本主義を認めていないという論に対しての研究は、東大の小室直樹博士の「資本主義のための革新」(日経BP社)に詳しい。痛快な本です。
正論異論は、多数決では決まらない。自分の考えを堂々と言う。その吐く言葉が真理になるために、勉強です。
一時的な優しさは結局は人を殺し、経営、国すらダメにすることは、歴史が証明しています。。
このことを思えば、千丈の谷に我が子を突き落とす。旅をさせる。その方が真の愛です。人生は長さなのだから、その瞬間の好悪、善し悪しで判断してはならないのである。だから、儲ける、でなく「儲け続ける」、というのが戦略で、そのために相手がそのときに好悪するか善し悪しとするか、喜ぶか悲しむか、そうしたことでなく、言う、行う。その内容が砂糖であろうと辛子であろうと、そういうことは全く別の問題である。
要は最終的に相手に喜んでもらう。感謝されるところに、心しているかどうかである。昔の真の臣は、死を賭して、王に諫言した。王からどう思われるかでなく、いい王に成って欲しくて。あるいは愛する国のが続いて欲しいために、だ。
ところがたいていの取り巻きは、甘言を弄し、主と国(会社)を滅ぼしてしまう。後者の彼らこそ偽善者である。あえて嫌われても言う。これこそ真の人材。いい技能をすれば人材と思ったり、イエスマンを可愛く思うようであれば、経営者やめたがいい。
だがあえて嫌われるように言う必要もない。また諫言が理解できないような人に言っても意味がない。昔とちがって、今は「去る」ということが出来るのだから。こうしていい人が去り、悪い人が経営者を取り囲むことになる。ハテ、あなたのところはどうだろう。
人生は人気取りではないのです。
嫌われようと好かれようと、といったことを意識することなく、言動出来る。。また痛い話を痛いと感じても傾聴できる人間、そうした人、そうした職場風土をつくる、そうした真の本当の「経営者」をめざしてほしい。
もう一度言う。偽善者とは、甘言を喜ぶ経営者に、甘言を弄する人のことを言います。
ところで冒頭に書いた、宗教、とくにキリスト教は、商売、資本主義を認めていないという論に対しての研究は、東大の小室直樹博士の「資本主義のための革新」(日経BP社)に詳しい。痛快な本です。
正論異論は、多数決では決まらない。自分の考えを堂々と言う。その吐く言葉が真理になるために、勉強です。