創世記 47:5-6
『パロはヨセフに言った、「あなたの父と兄弟たちとがあなたのところにきた。 エジプトの地はあなたの前にある。地の最も良い所にあなたの父と兄弟たちとを住ませなさい。ゴセンの地に彼らを住ませなさい。もしあなたが彼らのうちに有能な者があるのを知っているなら、その者にわたしの家畜をつかさどらせなさい」。』
エジプト王パロはヨセフの家族のためにエジプト中で最も良い地を与えました。また有能な者を取り立ててパロの家畜を飼う者としました。このようにしてイスラエル一族はエジプトでさいわいを得、カナンを出るときに神様がイスラエルに約束した通り、祝福を受けました。
神様に従って歩む人生は、どこにいても祝福が伴います。自分の置かれた場所で神様の栄光を表すために生きる私たちでありますように。
http://bible.com/81/gen.47.5-6.ja1955
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創世記 47:7-10
『そこでヨセフは父ヤコブを導いてパロの前に立たせた。ヤコブはパロを祝福した。 パロはヤコブに言った、「あなたの年はいくつか」。 ヤコブはパロに言った、「わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」。 ヤコブはパロを祝福し、パロの前を去った。』
一介の羊飼いに過ぎない老人ヤコブが、エジプト全土の王パロを祝福したのは、私たちが人々の前にどのように生きるべきかを示します。それは、神様から受けた祝福を、自分の周囲の人々に分け与えるために生きる人生です。私たちもまた神様の祝福を自分だけのものとするケチな人間とはならず、惜しみなく与える生涯を送る者でありたいと願います。
そしてパロはヤコブに年齢を尋ねます。おそらく年長者に対して敬意を示す習慣がエジプトにあったのではないかと思われますが、ここでヤコブは130年生きながらえても、私の人生は不幸せであったと告白します。確かにヤコブの人生は波瀾万丈、苦労の耐えない生涯でした。年若くして父母の元を離れ、伯父のラバンに奴隷のようにこき使われ、ようやく自分の国に帰ったら最愛の息子と生き別れになり、この歳まで泣きながら過ごした人生でした。それでも晩節にヤコブは恵みを得、最愛の息子ヨセフと再会し、飢饉でいのちの危機が迫ったときに人生の大逆転のような考えられない祝福を受けるに至りました。
私たちの人生を山あり谷あり、苦労と涙の耐えない生涯を過ごす日々が多いかと思います。それでも最後に笑わせてくださるのが神様です。何よりも私たちには永遠の天国が待っているのですから、この世で受けたどんな苦労も吹き飛ぶほどの祝福が備えられています。その日を確信し、期待して待ち望み、すべての苦難を耐え忍んで祝福を受ける私たちでありますように。
http://bible.com/81/gen.47.7-10.ja1955
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創世記 47:25-28
『彼らは言った、「あなたはわれわれの命をお救いくださった。どうかわが主の前に恵みを得させてください。われわれはパロの奴隷になりましょう」。 ヨセフはエジプトの田地について、収穫の五分の一をパロに納めることをおきてとしたが、それは今日に及んでいる。ただし祭司の田地だけはパロのものとならなかった。 さてイスラエルはエジプトの国でゴセンの地に住み、そこで財産を得、子を生み、大いにふえた。 ヤコブはエジプトの国で十七年生きながらえた。ヤコブのよわいの日は百四十七年であった。』
飢饉の中で他のエジプト人たちが皆、いのちを食いつなぐために家畜も田畑もパロに売って奴隷となったのと対照的に、イスラエル一族はエジプトの地で財産を得、子を産んで大いに増えたと記されています。そしてヤコブはエジプトの地で17年生きながらえ、さいわいな晩年を過ごします。
神様の祝福は、神様と共に歩む者と共にあります。私たちは世に仕える奴隷となるか、世を治める神様の側に付く者となるか、それによって立場が全く逆になります。世の楽しさを求めるならば、私たちは世に振り回される奴隷に成り下がります。そうではなく天地万物を司られる神様に仕える者となり、世の浮き沈みに振り回されることなく、まことの祝福と平安の中に生きる私たちでありますように。
http://bible.com/81/gen.47.25-28.ja1955
『パロはヨセフに言った、「あなたの父と兄弟たちとがあなたのところにきた。 エジプトの地はあなたの前にある。地の最も良い所にあなたの父と兄弟たちとを住ませなさい。ゴセンの地に彼らを住ませなさい。もしあなたが彼らのうちに有能な者があるのを知っているなら、その者にわたしの家畜をつかさどらせなさい」。』
エジプト王パロはヨセフの家族のためにエジプト中で最も良い地を与えました。また有能な者を取り立ててパロの家畜を飼う者としました。このようにしてイスラエル一族はエジプトでさいわいを得、カナンを出るときに神様がイスラエルに約束した通り、祝福を受けました。
神様に従って歩む人生は、どこにいても祝福が伴います。自分の置かれた場所で神様の栄光を表すために生きる私たちでありますように。
http://bible.com/81/gen.47.5-6.ja1955
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創世記 47:7-10
『そこでヨセフは父ヤコブを導いてパロの前に立たせた。ヤコブはパロを祝福した。 パロはヤコブに言った、「あなたの年はいくつか」。 ヤコブはパロに言った、「わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」。 ヤコブはパロを祝福し、パロの前を去った。』
一介の羊飼いに過ぎない老人ヤコブが、エジプト全土の王パロを祝福したのは、私たちが人々の前にどのように生きるべきかを示します。それは、神様から受けた祝福を、自分の周囲の人々に分け与えるために生きる人生です。私たちもまた神様の祝福を自分だけのものとするケチな人間とはならず、惜しみなく与える生涯を送る者でありたいと願います。
そしてパロはヤコブに年齢を尋ねます。おそらく年長者に対して敬意を示す習慣がエジプトにあったのではないかと思われますが、ここでヤコブは130年生きながらえても、私の人生は不幸せであったと告白します。確かにヤコブの人生は波瀾万丈、苦労の耐えない生涯でした。年若くして父母の元を離れ、伯父のラバンに奴隷のようにこき使われ、ようやく自分の国に帰ったら最愛の息子と生き別れになり、この歳まで泣きながら過ごした人生でした。それでも晩節にヤコブは恵みを得、最愛の息子ヨセフと再会し、飢饉でいのちの危機が迫ったときに人生の大逆転のような考えられない祝福を受けるに至りました。
私たちの人生を山あり谷あり、苦労と涙の耐えない生涯を過ごす日々が多いかと思います。それでも最後に笑わせてくださるのが神様です。何よりも私たちには永遠の天国が待っているのですから、この世で受けたどんな苦労も吹き飛ぶほどの祝福が備えられています。その日を確信し、期待して待ち望み、すべての苦難を耐え忍んで祝福を受ける私たちでありますように。
http://bible.com/81/gen.47.7-10.ja1955
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創世記 47:25-28
『彼らは言った、「あなたはわれわれの命をお救いくださった。どうかわが主の前に恵みを得させてください。われわれはパロの奴隷になりましょう」。 ヨセフはエジプトの田地について、収穫の五分の一をパロに納めることをおきてとしたが、それは今日に及んでいる。ただし祭司の田地だけはパロのものとならなかった。 さてイスラエルはエジプトの国でゴセンの地に住み、そこで財産を得、子を生み、大いにふえた。 ヤコブはエジプトの国で十七年生きながらえた。ヤコブのよわいの日は百四十七年であった。』
飢饉の中で他のエジプト人たちが皆、いのちを食いつなぐために家畜も田畑もパロに売って奴隷となったのと対照的に、イスラエル一族はエジプトの地で財産を得、子を産んで大いに増えたと記されています。そしてヤコブはエジプトの地で17年生きながらえ、さいわいな晩年を過ごします。
神様の祝福は、神様と共に歩む者と共にあります。私たちは世に仕える奴隷となるか、世を治める神様の側に付く者となるか、それによって立場が全く逆になります。世の楽しさを求めるならば、私たちは世に振り回される奴隷に成り下がります。そうではなく天地万物を司られる神様に仕える者となり、世の浮き沈みに振り回されることなく、まことの祝福と平安の中に生きる私たちでありますように。
http://bible.com/81/gen.47.25-28.ja1955